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亀田の歴史(抜粋)

 

4月27日のフットパスで子共達を担当する予定ですので、その説明資料として、

亀田の歴史R02)から、重要な部分のみを抜書きしたものです。

また、面白味を増やすため、多少書き加えた部分もあります。

亀田領 秋田戦争(戊辰戦争)の地図もアップしましたので、合わせてご覧下さい。

 

 

地球人誕生

16万年前、アフリカ南東部で、ヘルト人(ホモ・サピエンス・イダルトゥ)が出現。

アフリカに留まったのが、ネグロイド(黒色人種 純粋なホモ・サピエンス・サピエンス)

  中東に出て、ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)と混血(1〜4%)

    中東からヨーロッパに行ったのが、コーカソイド(白色人種 クロマニヨン人)

    中東からアジアに行ったのが、  モンゴロイド(黄色人種)

      アジアから南北アメリカに渡ったのが、 モンゴロイド(黄色人種)

      オーストラリアに渡ったのが、オーストラロイド(黄色人種 アボリジニ)

 

ミトコンドリアイブ=世界中から選んだ147人の女性の、母系の先祖は一人。

ミトコンドリアDNAは―――母のDNAだけが伝わる。父のDNAは伝わらない。

           ―――変化はしない。するとすれば突然変異の場合だけ。

 

日本人誕生

旧石器時代  4万年前 インドネシア⇒大陸⇒樺太⇒北海道 陸ルートでアイヌ人

       2万年前 インドネシア⇒台湾⇒沖縄     海ルートで沖縄人

 

縄文時代   BC8,000BC300 磨製石器 縄文式土器 の時代

       豊かな時代  争いの無い時代  山内丸山遺跡  大湯環状列石

       中国は春秋戦国時代 秦始皇帝が中国統一 戦を逃れて中国人が渡来。

       稲作が始まる。旧日本人との混血が進む。黒曜石 アスファルト

       ただし、持ち込まれた疫病のため、人口は激減。26万人⇒8万人

 

弥生時代   BC300年前〜AD250 弥生式土器 青銅器 鉄器 の時代

       邪馬台国の卑弥呼 AD239 親魏倭王 漢委奴国王 渡来人 

       稲作が広まる。 人口急増60万人。争いの時代。朝鮮の任那に進出。

 

古墳時代   342年間 AD250AD592

       大和朝廷誕生  日本武尊 日本統一(東北除く)

       任那に日本譜。前方後円墳13基 ヒスイ勾玉 漢字伝来 仏教伝来

 

飛鳥時代   118年間 AD592AD710

       聖徳太子 遣隋使 遣唐使

       660百済滅亡 663安部比羅夫唐新羅連合軍と戦うも大敗。百済の役。

       多くの百済人が日本に逃れる。   高麗9181392  天皇家 百済

 

本州人  中国系26% 韓国系24% 沖縄系16% アイヌ系8% 日本系5% 他21

日本人の95%のミトコンドリアイブは、9人。

 

亀田の歴史

―――――蝦夷 豪族 の時代―――――

 

縄文時代  東北には、弥生時代も古墳時代も無く、続縄文時代と呼ばれる。

      亀田にも、茶畑遺跡があった。

 

飛鳥時代  658660 安部比羅夫 水軍180隻を率いて日本海側を遠征。

           秋田 能代 津軽 の蝦夷を帰順させる。秋田の初見。

           みしはせ(ロシア)まで。

           鳥海山麓の豪族「振名」が、安部比羅夫に随行。

奈良時代  出羽柵を庄内から秋田新屋に移動。

      出羽柵を廃止、秋田城を高清水岡に設置。

      雄勝城を設置。

      続日本記の780年に、由利柵が出ている。由利の初見。

 

―――――由利氏の時代―――――

 

平安時代  801 坂上田村麻呂が遠征アテルイ滅ぶ。払田柵設置。

      802 天鷺速男が、滅ぶ。 出羽八郎維名(振名の子孫)

      女米木村の三つ目の鬼を滝俣で退治。笠脱坂 観音森 鬼場 槍立 矢筥

      富田から道川へ。月山神社 袖振坂 二古 君が野 中山滝宮神社

      勝手から秋田城へ。秋田からは船で平安京に戻る。

        注 天鷺速男の資料 坂上田村麻呂の秋田での資料は一切無い。

 

      10511062 前九年の役。岩手の阿部氏が反乱。

            横手の清原氏 源頼義(八幡太郎義家の父)

            清原氏当主武貞妻=安部一族藤原常清妻=安部氏当主頼時娘

      10831087 後三年の役。清原清衡−清原家衡兄弟の争い。

            八幡太郎義家の援助を得た清衡が勝つ。藤原清衡

        注 雁行の乱れ  平安の風わたる公園

 

鎌倉時代  1185 由利八郎維友は、真坂次郎(上直根)に襲われ、天鷺城に逃れる。

         維友は、藤原秀衡(3代)に訴え、藤原の下に属することになる。

      1189 奥州藤原氏、源頼朝に滅ぼされる。(奥州合戦)

         維友の子由利仲八維平(これひら)、捕らえられるが

         その態度が頼朝に認められ、鎌倉御家人になる。

         由利氏は、奥州合戦後に、8陣代と4要塞を、十二陣代に改めた。

 

――――由利十二頭の時代@(鎌倉時代前期1213〜室町時代中期1467まで)――――

 

鎌倉時代  1213〜最後1333まで(121年間)

      1213 和田の乱(和田義盛北条義時を攻めた事件)

         由利維久は、和田に味方したと疑われ、所領を没収される。

         由利郡は大弐局が賜るが、甥の小笠原大井朝光を養子にし所領を譲る。

         以後、大井氏の諸流が移住し、由利十二頭の祖となる

      1233 維久許され、浜館に入る。

      1324 岩倉館の由利維政、栗山館の鳥海弥三郎宗盛に滅ぼされる。

         由利維政の子である維貴は、信州に逃れる。

      1326 宗盛に従わなかったのは赤尾津の日向入道雲海だけであったが、

         赤尾津城を支えかね荒沢(新沢)に退いた。

 

室町時代  1333〜中期1466133年間)

      1339 由利維貴、光貞、朝保、光泰を伴い、松ヶ崎に上陸。

         小笠原光貞 大野築館に入り赤尾津を名乗る。赤尾津城は荒廃。

 

鼻こくり  町場 参勤交代 駒泣かせ峠 亀田街道 割山 地震  外道川

 

――――由利十二頭の時代A(室町時代中期1467〜安土桃山時代1603)――――

 

室町時代  中期14671573107年間)

      1467 由利十二頭 室町幕府の命を受けて下向

         由利郡内大いに乱れたため、応仁元年鎌倉幕府に地頭を請う。

         とあるが、応仁元年は1467年であり、鎌倉幕府は既に無い。

         また、応永元年1394年との説もある。

         由利郷内および大曲勢との間で、争い続く。

 

安土桃山時代 1573160330年間)

         由利郷内大曲勢に加え庄内勢との間でも、争い続く。千人隠れ。

      1590 豊臣秀吉の天下統一に際しては、由利十二頭は知行を安堵された。

         赤尾津 仁賀保 滝沢 岩屋 打越 は、由利五人衆と呼ばれた。

      1592 文禄の役(朝鮮出兵)。由利十二頭、大谷吉継に従った。

      1600 関が原、由利十二頭、最上義光の山形に参集するが、無断で帰国。

         赤尾津 芹田 石沢 潟保 鮎川 根井 、領地を没収される。

         注 義光娘駒姫 豊臣秀次側室 斬首 徳川家康除名嘆願

           上杉景勝(石田光成)(優勢)vs 最上義光(徳川家康)(劣性)

           関ヶ原の決着を期に、上杉撤退(直江兼続)

 

 

―――――最上義光の時代―――――

 

江戸時代  16031868265年間)

      1603 最上義光、由利郡を与えられる。

         赤尾津城には楯岡満茂が湯沢城から移った。

         最上町はこの時作られる。

      1612 楯岡満茂は本荘城に移り、赤尾津城は廃城となった。

      1622 最上氏が、お家騒動を理由に改易になる。山形城は本多正純が接収。

         佐竹義宣、本荘城接収後、破却。本多正純と絶交。

 

―――――本多正純の時代―――――

 

      1622 本多正純が宇都宮15万石から、由利5万5千石に転封。

      1623 本多正純が由利領を没収され、身柄は秋田藩佐竹氏に預けられる。

 

――――――岩城氏の時代――――――

 

岩城氏は、常陸平氏の出。平国香は祖。平将門。

平安時代は、秋田清原氏 奥州藤原氏と関係が深い。

鎌倉時代は、全盛期。

戦国時代は、伊達 佐竹等の勢力が強くなり、関係を深める。

関ヶ原では、貞隆が実兄佐竹義宣の命により、上杉景勝征伐に不参加、所領を没収される。

      後、信州中村藩(川中島藩)1万石を許される。

 

      1623 由利郡は、亀田藩 本荘藩 矢島藩 仁賀保藩 に分割された。

         亀田藩   岩城吉隆貞隆子) 信濃川中島から2万石で転封。

         本荘藩   六郷政乗 常陸府中から転封。

         矢島藩   内越光隆 常陸行方から転封。

         仁賀保藩  仁賀保挙誠 常陸武田から転封。

 

      1626 佐竹家当主予定義直(義宣養子)、将軍家の賀席で居眠りし廃嫡。

      1628 初代亀田藩主岩城吉隆、久保田藩を継ぎ、佐竹義隆と名乗る。

      1628 多賀谷宣家、(岩城宣隆と改名)2代藩主となる。

        (久保田藩主佐竹義宣の実弟 檜山城主 妻は真田幸村5女お田の方

      1634 宣隆お田の子重隆(名君月峰公)、3代藩主となる。

      1635 お田の方、江戸にて死す。享年32歳。墓所妙慶寺。

      1681 重隆一子景隆、文武両道なれど素行改まらず、廃嫡幽閉される。

 

      1730 大野堰開通。赤平の新田開発。

      1679 大正寺論争起る。岩城藩が秋田藩の川船に、税金を掛けようとする。

 

5代6代と、2代続けて伊達家から養子が入る。

これにより、佐竹家との縁が薄れる。

 

      1761 秋田退散事件

         藩政改革を提言するも、6代岩城隆恭(たかよし)の怒りを買い、

         岩城帯刀 大内図書 岩城八百之助(後長善館学頭)

         武士107人 従者500人 と共に、秋田に逃げる。

      1770 秋田退散事件の関連者、亀田に戻る。  岩城の赤油衣(かっぱ)。

 

      1785 百姓一揆。7代岩城隆恕(たかのり)の代。4名打ち首。

         6体地蔵 天明の大飢饉(17821788)天保の大飢饉(18331839)

 

      1828 シーボルト(オランダ人医師)事件。8代隆喜の時代。

      1830 大通詞馬場為八郎はこれに連座し、亀田藩に預けられる。

         本来は座敷牢の身であるが、学問を得るため出入り自由にした。

      1838 70歳で他界。墓は妙慶寺。遺骨は和田三折夫妻が長崎に届ける。

 

      1868  戊辰戦争。12代隆邦の時代。

          新政府側――亀田藩・秋田藩・本荘藩・矢島藩

          幕府側―――会津藩・庄内藩・亀田藩

          奥羽越烈藩同盟は、会津藩・庄内藩を救いたい。

 

―――――現 代―――――

 

      1869 明治2年  12代藩主隆邦隠居。亀田藩2000石減封。

         近江宮川藩主堀田正誠の長男隆彰、13代藩主となる。

      1871 明治4年7月  廃藩置県により、亀田県となる。

      1871 明治4年12月 秋田県に併合される。

      1889 明治22年4月 14町村が合併し、由利郡亀田町誕生。

      1955 昭和30年 亀田町と道川村が合併し、岩城町となる。

      2005 平成17年 1市7町が合併し、由利本荘市となる。

 

 

―――――戊辰戦争―――――

 

 

亀田藩の新政府軍としての1次出兵

4.30   亀田軍、新政府軍の一員として、庄内征討のため先発隊出兵。77名。

4.2  後発隊出兵。268名。

4.20   奥羽同盟2000,新庄(新政府側⇒同盟参加⇒新政府側)討伐のため向け北上。

4.29   新政府軍、新庄藩を見捨て、戦闘を交えること無く秋田に退却。

5.8   亀田軍、亀田に帰着。

 

 

 

亀田藩の新政府軍としての2次出兵

7.6   政府軍、庄内征討のため出兵。740名。軍監長州藩士山本登雲助。

7.7   松ヶ崎まで進軍してきた新政府軍が、亀田藩に宣戦布告する。

     これは、亀田藩を先鋒にするための作戦。

     「秋田県史」ではこれを、「誠に無礼至極の投簡」と評している。

7.14   庄内・仙台・米沢勢、新庄城を落とし、秋田を目指して侵攻。

     新庄城下3000戸焼失。

7.28   鳥海山越えの庄内藩に、矢島藩陥落。本荘に退却。

     矢島城下100戸焼失。

8.1   軍議の席で、応援を要請した亀田藩神谷隊長を、山本軍監は鉄扇で殴る。

8.3   奉行免で戦闘。(山田合戦)新政府軍15名死亡。本荘まで総退却。

8.5   平沢・芹田で戦闘、大敗し本荘に退却。

     矢島口の新上条・吉沢で戦闘、大敗し本荘に退却。

8.6   新政府軍、秋田に総退却。

     孤立した本荘藩は、夜6時頃本荘城自焼。秋田に退却。

     本荘城下  戸焼失。

     亀田藩は、福山(由利原?)に置き去りにされた。

     福山とはどこか? 県立大の北側か?

8.7   吉川多喜見、下浜にて山本監軍と会見。亀田軍置き去りの件を質す。

     回答は、好きにしてよろしいとのこと。(つまりは、見捨てるという意味)

8.8   亀田藩、庄内藩に降伏。

8.13  庄内勢4番大隊(山手)、亀田城下に進駐。

8.14  庄内勢3番大隊(浜手)、亀田城下に進駐。

 

 

 

 

亀田藩の幕府軍としての動き 長浜口

8.18   庄内3番大隊亀田隊、羽川にて新政府軍と戦闘。

8.29   君ケ野 名ケ沢 勝手にて戦闘。

9.12   庄内勢、長浜を奇襲するが、撃退される。

 

 

亀田藩の幕府軍としての動き 大正寺口

8.17   庄内4番大隊亀田隊は、神ケ村に進駐する。

9.9   秋田勢、椿台に総退却。庄内勢、向野に集結。

9.11   椿台の決戦。庄内勢大敗。糠塚山を放棄し神ケ村に退却。

 

 

亀田藩の逃避行

9.16   庄内勢、全軍撤退開始。

9.18   亀田まで撤退。

9.19   本荘まで撤退。

 

     藩士と家族1700人の逃避行が始まった。庄内藩はそれを援護した。

     殿の3番大隊は、病人 子供 老人のため、象潟から2艘の船を出した。

     これは、「亀田藩の立ち退きを見届けてから引き上げよ」との藩命による。

 

 

秋田藩の所業

9.20   亀田城下に、秋田藩の渋江内膳隊が進駐した。

9.21   山本軍鑑は、荒川隊と共に進駐し、亀田城を焼き払った。

     (雄和町教育委員会編纂の「雄和の戊辰戦争」には、

      高尾村の肝煎大友定之助が残した日記の9月21日の記録として

     「御上御道具、その他の品物は、皆、秋田へ船にて参る」と載せられている)

     私の妻は、御典医「武田伯善」の家の出であるが、

     その時、水甕1個が残っていただけと伝わっている。

     旧藩祭で書画骨董が展示されるが、ほとんど借り物である。

 

 

亀田藩の敗戦処理

9.28   庄内藩亀田藩、新政府軍に降伏。

10.25   藩主隆邦、亀田に戻り、薬王寺に入る。

12.7    2000石減封の上、隠居申しつけられる。

12.22   藩主隆邦、浅草総泉寺に入り、謹慎。