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亀田の歴史(抜粋)

 

 

11月4日、岩城小学校6年生による、亀田の街の歴史散歩が行われました。

本資料はその説明のために、亀田の歴史R02)から、厳選し抜書きしたものです。

なお、間違いが有るかも知れませんので、各自で確認願います。

 

 

―――――石器時代―――――

 

      16万年前、新人類(ホモ・サピエンス・イダルトゥ)が出現。

      現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)に進化。

      なお、現生人類には、旧人類(ホモ・ネアンデルターレンシス)の遺伝子が

      最大で4%含まれている。

 

      日本には、4万年前には北方ルートでアイヌ人が、

      2万年前には南方ルートで沖縄人が到来している。

 

縄文時代  1万年前〜2300年前

弥生時代  2300年前〜西暦250

古墳時代  250592

      東北には、弥生時代も古墳時代も無く、続縄文時代と呼ばれる。

      亀田にも茶畑遺跡があり、土器や矢じりを拾えた。

 

 

 

―――――蝦夷 豪族 の時代―――――

 

飛鳥時代  658660 安部比羅夫 水軍180隻を率いて日本海側を遠征。

           秋田 能代 津軽 の蝦夷を帰順させる。秋田の初見。

           みしはせ(ロシア)まで。

           鳥海山麓の豪族「振名」が、安部比羅夫に随行。

 

奈良時代  733 出羽柵を庄内から秋田新屋に移動。

      759 雄勝城を設置。

      761 出羽柵を廃止、秋田城を高清水岡に設置。

      続日本記の780年に、由利柵が出ている。由利の初見。

―――――由利氏の時代―――――

 

平安時代  801 坂上田村麻呂が遠征アテルイ滅ぶ。払田柵設置。

      802 天鷺速男が、滅ぶ。 出羽八郎維名(振名の子孫)

      女米木村の三つ目の鬼を滝俣で退治。笠脱坂 観音森 鬼場 槍立 矢筥

      富田から道川へ。月山神社 袖振坂 二古 君が野 中山滝宮神社

      勝手から秋田城へ。秋田からは船で平安京に戻る。

 

      注 天鷺速男の資料 坂上田村麻呂の秋田での資料は一切無い。

 

      10511062 前九年の役。岩手の阿部氏が反乱。

      10831087 後三年の役。清原清衡−清原家衡兄弟の争い。

 

 

鎌倉時代  1185 由利八郎維友は、真坂次郎(上直根)に襲われ、天鷺城に逃れる。

         維友は、藤原秀衡(3代)に訴え、藤原の下に属することになる。

      1189 奥州合戦。藤原氏滅ぶ。源頼朝 源義経。

         由利氏は、奥州合戦後に、8陣代と4要塞を、十二陣代に改めた。

 

 

 

――――由利十二頭の時代@(鎌倉時代前期1213〜室町時代中期1467まで)――――

 

鎌倉時代  1213〜最後1333まで(121年間)

      1213 和田の乱(和田義盛北条義時を攻めた事件)

         由利維久は、和田に味方したと疑われ、所領を没収される。

         由利郡は大弐局が賜るが、甥の小笠原大井朝光を養子にし譲る。

         以後、大井氏の諸流が移住し、由利十二頭の祖となる

      1233 維久許され、浜館に入る。

      1324 岩倉館の由利維政、栗山館の鳥海弥三郎宗盛に滅ぼされる。

         由利維政の子である維貴は、信州に逃れる。

      1326 宗盛に従わなかったのは赤尾津日向入道雲海だけであったが、

         赤尾津城を支えかね荒沢(新沢)に退いた。

 

室町時代  1333〜中期1466133年間)

      1339 由利維貴、光貞、朝保、光泰を伴い、松ヶ崎に上陸。

         小笠原光貞 大野築館に入り赤尾津を名乗る。赤尾津城は荒廃。

 

 

 

――――由利十二頭の時代A(室町時代中期1467〜安土桃山時代1603)――――

 

室町時代  中期14671573107年間)

      1467 由利十二頭 室町幕府の命を受けて下向

         由利郡内大いに乱れたため、応仁元年鎌倉幕府に地頭を請う、

         とあるが、応仁元年は1467年であり、鎌倉幕府は既に無い。

         また、応永元年1394年との説もある。

 

 

安土桃山時代 1573160330年間)

      1590 豊臣秀吉の天下統一に際しては、由利十二頭は知行を安堵された。

         赤尾津 仁賀保 滝沢 岩屋 打越5氏は、由利5人衆と呼ばれた。

      1592 文禄の役(朝鮮出兵)では、由利十二頭は大谷吉継に従った。

      1600 関が原、由利十二頭、最上義光の山形に参集するが、無断で帰国。

         赤尾津 芹田 石沢 潟保 鮎川 根井 、領地を没収される。

 

         注 義光娘駒姫 豊臣秀次側室 斬首 徳川家康除名嘆願

           上杉景勝(直江兼続 石田光成)vs 最上義光(徳川家康)

 

 

 

―――――最上義光の時代―――――

 

江戸時代  16031868265年間)

      1603 最上義光、由利郡を与えられる。

         赤尾津城には楯岡満茂が湯沢城から移った。

         最上町はこの時作られる。

      1612 楯岡満茂は本荘城に移り、赤尾津城は廃城となった。

      1622 最上氏が、お家騒動を理由に改易になる。山形城は本多正純が接収。

         佐竹義宣、本荘城接収後、破却。本多正純と絶交。

 

 

 

―――――本多正純の時代―――――

 

      1622 本多正純が宇都宮15万石から、由利5万5千石に転封されるが

         これを拒絶。

      1623 本多正純が由利領を没収され、身柄は秋田藩佐竹氏に預けられる。

 

 

 

 

――――――岩城氏の時代――――――

 

岩城氏は、常陸平氏の出。平国香は祖。平将門。

平安時代は、秋田清原氏 奥州藤原氏と関係が深い。

鎌倉時代は、全盛期。

戦国時代は、伊達 佐竹等の勢力が強くなり、関係を深める。

関ヶ原では、貞隆が実兄佐竹義宣の命により、上杉景勝征伐に不参加、所領を没収される。

      後、信州中村藩(川中島藩)1万石を許される。

 

      1623 由利郡は、亀田藩 本荘藩 矢島藩 仁賀保藩 に分割された。

         亀田藩   岩城吉隆貞隆子) 信濃川中島から2万石で転封。

         本荘藩   六郷政乗 常陸府中から転封。

         矢島藩   内越光隆 常陸行方から転封。

         仁賀保藩  仁賀保挙誠 常陸武田から転封。

 

      1626 佐竹家当主予定義直(義宣養子)、将軍家の賀席で居眠りし廃嫡。

      1628 初代亀田藩主岩城吉隆、久保田藩を継ぎ、佐竹義隆と名乗る。

      1628 多賀谷宣家、(岩城宣隆のぶたかと改名)2代藩主となる。

        (久保田藩主佐竹義宣の実弟 檜山城主 妻は真田幸村5女お田の方

      1634 宣隆お田の子重隆(名君月峰公)、3代藩主となる。

      1635 お田の方、江戸にて死す。享年32歳。墓所妙慶寺。

      1681 重隆一子景隆、文武両道なれど素行改まらず、廃嫡幽閉される。

 

 

真田信繁(幸村)―――側室隆性院 豊臣(三好)秀次正室一ノ台娘 

        |―― 五女 直  岩城宣隆正室 田 顕性院

        |―― 三男 幸信 祖父秀次の三好姓を名乗り、岩城家に仕える。

 

 

      1730 大野堰開通。赤平の新田開発。

      1679 大正寺論争起る。岩城藩が秋田藩の川船に、税金を掛けようとする。

 

5代6代と、2代続けて伊達家から養子が入る。これにより、佐竹家との縁が薄れる。

 

      1761 秋田退散事件

         藩政改革を提言するも、6代岩城隆恭(たかよし)の怒りを買い、

         岩城帯刀 大内図書 岩城八百之助(後長善館学頭)

         武士107人 従者500人 と共に、秋田に逃げる。

      1770 秋田退散事件の関連者、亀田に戻る。  岩城の赤油衣(かっぱ)。

      1785 百姓一揆。7代岩城隆恕(たかのり)の代。4名打ち首。

         6体地蔵 天明の大飢饉(17821788)天保の大飢饉(18331839)

 

      1828 シーボルト(オランダ人医師)事件。8代隆喜の時代。

      1830 大通詞馬場為八郎はこれに連座し、亀田藩に預けられる。

         本来は座敷牢の身であるが、学問を得るため出入り自由にした。

      1838 70歳で他界。墓は妙慶寺。遺骨は和田三折夫妻が長崎に届ける。

 

      1868  戊辰戦争。12代隆邦の時代。

 

 

 

―――――現 代―――――

 

      1869 明治2年  12代藩主隆邦隠居。亀田藩2000石減封。

         近江宮川藩主堀田正誠の長男隆彰、13代藩主となる。

      1871 明治4年7月  廃藩置県により、亀田県となる。

      1871 明治4年12月 秋田県に併合される。

      1889 明治22年4月 14町村が合併し、由利郡亀田町誕生。

      1955 昭和30年 亀田町と道川村が合併し、岩城町となる。

      2005 平成17年 1市7町が合併し、由利本荘市となる。

 

 

 

―――――戊申戦争―――――

 

 

新政府側として庄内藩と戦うが、常に先鋒を務めさせられ、被害多し。

敵には本間家の応援が有り、こちらは秋田も本荘も応援せず。

鳥海山の山頂越えの庄内兵に矢島町内を焼かれた後、

亀田兵は福山(旧由利町の小山)に置き去りにされ、降伏。

 

一転、庄内側として秋田藩と戦うことになり、道川戦でも雄和線でも優位であったが、

最後の決戦となった糠塚山(現秋田空港西側)争奪戦で、敗退。

 

 

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龍門寺にて

  日本の歴史概要

  龍門寺  戒檀石  山門  お霊屋  代の差異

    亀田藩主岩城家の菩提寺。

    寛永5年(1628年徳川家光の代)に建立された曹洞宗の寺。

    現在の本堂は昭和35年に建てられたもの。

    山門は本荘から移築したもので、由利本荘市指定文化財。

    お霊屋はとても珍しい。

    県指定有形文化財の2代藩主木像が保存されている。

    亀田領三十三観音霊場16番札所。

 

移動中

  茶畑遺跡  熊野神社  砂の器  北限の竹  中の車  鮭  正念寺

  上の車  武家屋敷  出溜り  薬王寺

    熊野神社(安勝寺)は応永5年(1398年室町時代由利十二頭の時代)の勧請。

    最上家および岩城家の崇敬社で、現在は6丁の村社。

    拝殿(健速須佐男命)と稲荷神社(天鷺太郎)は、旧岩城町指定文化財。

    亀田大神楽は由利本荘市無形文化財。

 

天鷺村にて

  天鷺村  小学校  中学校  役場  登記所  出溜り

  参勤交代  駒泣かせ峠  亀田街道

 

亀田小学校にて

  高城山  赤尾津城  町場  亀田城  石碑  天鷺グランド  桜  不定根  鮒

 

天鷺神社にて

  戊申戦争慰霊碑(新政府側として9名 庄内藩側として4名 不明3名)  忠霊の塔

    平国香を祀り、岩城平城中に有ったが、元和9年(1623年)に亀田城中に移す。

    明治11年、現在地に移し、明治12年郷社に列せられる。

 

移動中

  養福院(尼寺)?  下の車  神宮寺  銀杏  黒塀

 

妙慶寺にて

  お田の方  井戸  水行  経文石  宝物殿  

  シーボルト事件  馬場為八郎

    お田の方が寛永6年(1629年)に建立した、日蓮宗の寺。