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                亀田の歴史

 

 

 

説がたくさん有るため、どれが正しいのか判らないことも有ります。

地元の人間としては、地元を悪く書きたくないという気持ちも有ります。

ということで、「おかしいぞ」と思われるところも有るかと思いますので、

あらかじめおことわりしておきます。

 

 

 

参考資料

亀田郷土史上下巻   編集 岩城町郷土史編集委員会 発行 岩城町 昭和7年

天鷺村物語      編集 岩城町教育委員会    発行 岩城町 昭和64

岩城町史       編集 岩城町史編集委員会   発行 岩城町 平成8年

亀田藩戊辰史     編集 那須春弥        発行 岩城町 平成9年

インターネット    

 

 

 

 

○○○  赤色は亀田関連を表す。現在は上記資料によるものを表す。

○○○  緑色は由利郡関連を表す。

 

 

人類誕生と日本への渡来

猿人   600万年前〜130万年前  アウストラピテクス

原人   180万年前〜       ジャワ原人 北京原人

旧人   50万年前〜30万年前   ネアンデルタール人 デニソワ人 フローレス人

新人   20万年前〜       クロマニヨン人 上洞人 実は現生人類と同じ

現生人類(ホモサピエンス・サピエンス)は、16万年前にアフリカ大陸南東部に現われ、

中近東 ⇒ スンダランド(インドネシア)⇒ ロシア ⇒ カラフト ⇒ 北海道

          └―――――――→ ⇒ フィリピン ⇒ 台湾 ⇒ 沖縄

上記ルートで、日本に渡来する。

7〜1万年前は最終氷河期であり、海水面は現在より120m程低かった。

よって、インドネシアは陸地であり、日本海はほぼ閉じられていた。

日本海への親潮の流入は無かったため、雪は少なかった。

 

 

      ――――先史時代(旧石器時代 縄文時代 弥生時代)――――

 

 

 

旧石器時代 40,000年前〜10,000年前30,000年間)

旧石器時代前中期    40,00020,000年前  北方人が北海道に到着。

旧石器時代後期     20,00010,000年前  南方人が沖縄に到着。

打製石器の時代。土器はまだ作られていない。

狩猟採取を生業とする、移動生活。

 

 

 

縄文時代(新石器時代)10,000年前〜300BC9,300年間)

磨製石器 縄文式土器の時代。狩猟採取を生業とする定住生活。

縄文人は、主に東日本に住んでいた。

縄文晩期の、秦が中国を統一するまでの春秋戦国時代(BC770BC221)に、

多数の中国人が日本に逃れ、揚子江周辺から稲作が伝わった。

しかし、縄文中期には26万人だった人口が、縄文晩期には8万人に激減している。

縄文前期は、現在より2〜3度高い気温だったが、その後気候が寒冷化したのに加え、

渡来人による疫病が原因と考えられている。

 

三内丸山遺跡の集落は、5500年前〜4000年前の間、1500年間も続いている。

装飾品が多いので、人々は、争うことも無く、楽しく、暮らしていたと考えられる。

龍門寺と衣川の間の台地に、茶畑遺跡があったが、道路工事により消滅した。

 

 

 

弥生時代(続縄文時代) 300BCAD250550年間)

稲作は、温暖な西日本で広まったので、人口も西日本が主になる。

渡来と稲作により、人口は69万人まで増え、以降増え続ける。

東北にも稲作は伝わったが、寒冷(現代より2度も低い)のため定着しなかった。

よって、東北には弥生時代は無く、続縄文時代という。

 

人々は、吉野ヶ里遺跡のように、壕や土塁をめぐらせた環濠集落に住むようになる。

そのうち、邪馬台国のようなクニを作るようになり、クニとクニとの間で戦もおきた。

 

しかし、それは西日本での話しであり、縄文時代が続いていた東北地方は、

支配者もおらず、平和だったと思われる。

 

 

      ――――蝦夷の時代(古墳時代 飛鳥時代 奈良時代)――――

 

 

 

古墳時代(続縄文時代) 250592342年間) 

古墳文化は東北には達しておらず、続縄文時代が続いていた。

この時代から、大和朝廷の、武力に依る日本統一が始まった。

大和武尊が熊襲と蝦夷を平定したのは、4世紀頃のこと。(神話か史実かは不明)

古事記では千葉県まで、日本書紀では宮城県まで遠征している。

 

 

 

飛鳥時代 592710118年間)

柵・城・郡の設置と共に屯田兵の移住が行われ、東北に稲作が伝わった。

647     越国(福井県新潟県)の北端に渟足(ぬたり)柵を設置

654     陸奥(むつ)国設置。(福島県およびその周辺)。

658660  阿倍比羅夫、水軍180隻を率いて日本海側を遠征。

      齶田の恩荷、渟代の沙尼具那、津軽の馬武を帰順させる。(秋田の初見)

      この時、粛慎(みしはせ ロシア?)まで遠征している。

708     出羽柵(庄内)を設置

 

振名という鳥海山麓豊岡岱の豪族は、安倍比羅夫の陣営に加わっている。

 

 

 

奈良時代 71079484年間)

724    多賀城(宮城)設置。

733    庄内出羽柵、秋田に移動。(秋田市新屋)

759    雄勝城(横手氏周辺)設置

761    秋田城(秋田市高清水岡)設置。出羽柵を移動。

 

続日本記の780年に、由利柵が出てくる。(由利の初見)

 

この時代、柵・城・郡に派遣された大和朝廷の役人や軍人が、

恩荷・沙尼具那・馬武のような俘囚を支配していたと思われる。

しかし、天鷺速男や、アテルイのような蝦夷も、まだ多く存在していた。

なお、天鷺速男については、記録が何も無い。

名前も蝦夷らしくなく、蝦夷かどうかも判らない。

 

 

    ――――由利氏の時代(平安時代 鎌倉時代前期1213年まで)――――

 

 

 

平安時代 7941185391年間)

801    払田柵(大曲・千畑)を設置。(記録無く、年輪年代法にて)

801    征夷大将軍坂上田村麻呂が、蝦夷を征討する。

802    アテルイ モレ 降伏。 天鷺速男が滅ぶ。

 

亀田道川には、田村麻呂に由来する地名が、数多く残されている。

女米木村の三つ目の鬼を、滝の俣で退治した。――笠脱坂 観音森 鬼場 槍立 矢筥 

富田から二古越えの道をとった。――月山神社 袖振坂 二古 君ケ野 中山滝宮神社 

勝手浦へ出て、秋田城へ向かう。秋田城からは海路にて平安京に戻る。

 

出羽八郎維名(振名の子?)が、田村麻呂の先鋒として天鷺速男を攻めている。

この時代、出羽柵 由利柵 秋田城と、大和朝廷の軍事拠点が完成しており、

由利郡は既に平定されているので、征討する必要は無いはずである。

つまり、維名が田村麻呂をうまく利用し、宿敵を討ったということではないだろうか。

これ以降、由利氏が由利郡を治めたと思われる。

 

878   元慶の乱。蝦夷が秋田城を襲う。

903   菅原道真、九州大宰府にて没す。

    愛宕町の天満宮の祭神は、菅原道真。

935   岩城氏の祖、平国香、平将門に攻められ没す。

    最上町の天鷺神社の祭神は、平国香・歴代岩城藩主。

939   天慶の乱。蝦夷が秋田城を襲う。

 

10511062  前九年の役 舞台は岩手県。

    大和朝廷に反発した陸奥(岩手)の安倍氏が、

    出羽(秋田)の清原氏の力を借りた源頼義(八幡太郎義家の父)に滅ぼされる。

 

10831087  後三年の役 舞台は秋田県横手市。(私戦扱い) 

    跡継ぎ問題で揉めた出羽(秋田)の清原氏が、八幡太郎義家に滅ぼされる。

 

 

前九年の役 後三年の役が、由利郡にどのような影響を与えたかは調査中。

 

 

 

 

由利氏は平安時代の終わり、8陣代と4要塞をおいていた。

8陣代――関 冬師台 田代 軽井沢 荒波 黒瀬 桂根 田原

4要塞――汐超 平沢 大野(天鷺郷松ヶ崎か?) 羽川

 

 

鎌倉時代 1185〜前期1212まで(28年間)

1185  由利八郎維友(これとも)は、真坂次郎(上直根)に襲われ、天鷺城に逃れる

    維友は、藤原秀衡(3代)に訴え、秀衡の子の国衡の下に属することになる。

 

1187  真坂次郎(上直根)は、由利太夫維晟(これなり)に滅ぼされる。

    維晟は天鷺城に入ったが、後に根代館に移ったため、由利弾正維知を置いた。

 

1189  源頼朝、奥州藤原氏を征討(奥州合戦)

  維友の子由利仲八維平(これひら)、奥州合戦において頼朝に捕らえられるが、

その態度が頼朝に認められ、鎌倉御家人になる。

 

奥州藤原氏が滅んだ後は、下記の各氏が地頭職で秋田県に入った。

成田(鹿角) 浅利(比内) 橘(秋田) 小野寺(雄勝) 平賀(平鹿)

由利郡は、鎌倉御家人になった由利氏が、引き続き治めた。

 

由利氏は、奥州合戦後に、8陣代と4要塞を、十二陣代に改めた。

    大正寺(安東太郎)維季   大正寺新波   安東氏系 

    由利弾正維知        天鷺      由利氏 

    岩谷(清原)監物武信    岩谷元館    清原氏系 

    西城戸桂之助高衡      川大内須山   藤原系 

    芦名平太郎清氏       羽広下村    和田氏系 

    根代(由利)大口維晟    東由利根代   由利氏 

    由利八百八郎維忠      本荘岩倉    由利氏 

    由利志摩介維正       本荘大野    由利氏 

    由利八郎維友        鮎川成瀬館   由利氏   領主

    津久井五郎行氏       前郷曲沢    和田氏系 

    城内中務維張        矢島城内    由利氏 

    新城(金剛)蔵人秀生    矢島新城    木曾氏系 

    由利将監維義        平沢      由利氏 

 

1190  由利維平が、大河内兼任(藤原氏の重臣)に毛々左田(今の新屋)で討たれ、

    跡を維平の子である維久(これひさ)が継いだ。

 

 

 

 ――――由利十二頭の時代@(鎌倉時代前期1213〜室町時代中期1467まで)――――

 

 

鎌倉時代 前期1213〜最後1333まで(121年間)

1213  和田の乱(和田義盛が北条義時を攻めた事件)

    維久は、北条氏に味方したが、和田に味方したと疑われ、所領を没収される。

 

由利郡は大弐局が賜るが、甥である小笠原大井朝光を養子にし、所領を譲る。

以後、大井氏の諸流が移住し、由利十二頭の祖となる

とあるが、入部したという記録が無い。

よって、由利氏が大井氏の家来となって、引き続き由利郡を治めたのではないか。

 

1233  維久許され、浜館に入る。

1324  岩倉館由利維政、栗山館の鳥海弥三郎宗盛に滅ぼされる

    由利維政の子である維貴は、信州に逃れる。

 

1326  鳥海弥三郎宗盛に従わなかったのは赤尾津の日向入道雲海だけであったが、

赤尾津城を支えかね荒沢(新沢)に退いた。小介川氏か?

 

 

室町時代 1333〜中期1466133年間)

1339  由利維貴(由利若丸)、光貞、朝保光泰を伴って、松ヶ崎に上陸する。

鳥海弥三郎宗盛は内紛中。

由利維貴    岩倉館

小笠原光貞   大野築館  赤尾津氏を名乗る 赤尾津城は荒廃

小笠原朝保   岩谷館

大井光泰    矢島八森古城

 

1450  小介川立貞、年貢未納により真言宗当山派本山醍醐寺三宝院により訴えられる。

    小介川は後に赤尾津を名乗る。

 

 

小介川氏とは

大井氏の1派が、岩谷新沢に入り、近くを流れる小関川から、小介川を名乗った。

西には岩谷氏がいることから、北の赤尾津郷に勢力を伸ばしたため、

赤尾津氏と呼ばれた。

上蛇田と新沢を結ぶ峠は、あまりにも急なため「駒泣かせ峠」と呼ばれたが、

後の岩城氏は、参勤交代に使う程の主要道路であった。

 

 

  ――――由利十二頭の時代A(室町時代中期1467〜安土桃山時代1603)――――

 

 

室町時代 中期14671573107年間)

1467  由利十二頭 室町幕府の命を受けて下向。 ☆は旧前勢力。

   羽川孫市    羽川        

  ☆赤尾津孫八   赤尾津 大井氏   

  ☆岩谷右兵衛   岩谷  大井氏   

  ☆打越左近    打越  大井氏   

   到米孫助    館合  大井氏   

   下村小太郎   蔵   大井氏   

   石沢孫四郎   石沢  大井氏   

   子吉修理    子吉  大井氏   

  ☆滝沢兵庫    滝沢  由利氏   

   鮎川小平太   鮎川  大井氏   

  ☆大江五郎    矢島  大井氏   

   潟保弥太郎   西目  藤原氏   

   仁賀保兵庫   仁賀保 大井氏   

 

由利郡内100年程の間大いに乱れたため、応仁元年鎌倉幕府に地頭を請う。

とあるが、応仁元年は1467年であり、鎌倉幕府は既に無い。

また、応永元年1394年との説もある。

 

 

1532  赤尾津左衛門尉家保、前田又左衛門道信(大曲)の侵攻を、迎え撃つ。

1560  大江氏滝沢氏争う。これより仁賀保氏も巻き込み、郡内乱れる。

1572  赤尾津左衛門、戸沢氏(角館)の支援を受けた前田氏に、討たれる。

 

 

 

安土桃山時代 1573160330年間)

1574  さらに、羽川二郎も前田氏に討たれる。

1579  赤尾津二郎・羽川金剛丸が、打越 岩谷 石沢 潟保 らと共に大曲城を落す。

 

1582  庄内大宝寺氏が由利を席巻するが、荒沢の小助川図書 赤尾津の赤尾津二郎は、

    秋田安東愛季(ちかすえ)の援助を受け、防衛する。

 

    折渡峠「千人隠れ」洞窟の米のとぎ汁伝説は、この時の岩屋勢の物語である。

 

 

1582  横手小野寺氏が上洛する際、由利の諸将から人質をとった。

    開戦の足手まといになるまいとして、人質は自害した。

    石沢の母 赤尾津 岩谷 仁賀保 打越 滝沢の各幼童。

    雄物川沼館で由利勢5000仙北勢8000が激突した。(大沢山合戦)

    戦死者由利勢50余人、仙北勢480名。

    戦の後、小野寺氏は、矢島 下村 玉前の人質幼女3人を返した。

 

1583  庄内大宝寺勢、小助川図書の荒沢城を攻めるが、

    安東愛季と連携し万全な守備体制を敷いていたため、これを退ける。

    芋川が死体で埋まり、水が逆流したため、この地は「返り瀬」と呼ばれている。

 

1587  秋田氏に内紛が起り、当主実季は由利衆に支援を求めた。

    赤尾津の次男である九郎は、羽川小太郎義植の羽川新館を奪い、

    羽川主膳正九郎を名乗る。

 

1588  由利十二頭諸氏は、矢島満安を攻め、西馬音内城に追いやる

 

1590  豊臣秀吉の天下統一に際しては、由利十二頭は知行を安堵された。

    赤尾津氏 仁賀保氏 滝沢氏 岩屋氏 打越氏 は、由利五人衆と呼ばれた。

 

1592  文禄の役(朝鮮出兵)。由利十二頭、大谷吉継に従った。

 

1600  関が原直前、由利十二頭、最上氏の居城山形に参集するが、無断で帰国。

    赤尾津 芹田 石沢 潟保 鮎川 根井 の各氏、領地を没収される。

 

1603  最上義光、由利郡を与えられる。

    赤尾津城には楯岡満茂が湯沢城から移った。最上町はこの時作られる。

    楯岡満茂、他に 打越 潟保 羽川 石沢 下村 玉前 を領する。

    赤尾津  楯岡満茂       打越   常陸に転封  楯岡満茂

    鮎川   領地召上       仁賀保  常陸に転封

    潟保   楯岡満茂       羽川   楯岡満茂

    芹田   領地召上       玉前   楯岡満茂

    根井   領地召上       下村   楯岡満茂

    矢島   1588年滅亡      石沢   楯岡満茂

子吉   

                    岩谷   最上氏に仕えた

                    滝沢   最上氏に仕えた

 

 

 

         ――――岩城氏の時代(江戸時代)――――

 

 

江戸時代 16031868265年間)

1612  楯岡満茂は本荘城に移り、赤尾津城は廃城となった。

1622  最上氏が、お家騒動を理由に改易になる。

    佐竹義宣、本荘城接収、破却 本多正純と絶交。

1622  本多正純が宇都宮15万石から、由利5万5千石に転封

1623  本多正純が由利領を没収され、身柄は秋田藩佐竹氏に預けられる。

 

1623  由利郡は、亀田藩 本荘藩 矢島藩 仁賀保藩 に分割された。

    亀田藩   岩城吉隆が、信濃川中島1万石から2万石で転封

    本荘藩   六郷政乗が、常陸府中から転封。

    矢島藩   内越光隆が、常陸行方から転封。

    仁賀保藩  仁賀保挙誠が、常陸武田から転封。

 

旧秋田市 − 下浜八田 下浜羽川 下浜名ケ沢 下浜長浜 下浜桂根 下浜楢田

旧雄和町 − 神ケ村 碇田 茅ケ沢 繋 新波 下黒瀬

旧西仙北町− 北ノ目 円行寺 木売沢 

旧岩城町 − 全域

旧大内町 − 深沢 大倉沢 加賀沢 松本 及位 葛岡 中田代 長坂 中館 牛寺 

       女岡 中ノ目 岩谷 三川 北福田 川口 徳沢 中俣 高尾 中帳

 新沢 岩谷麓 払川 大谷 米坂 小栗山 増沢 代内 川倉 松本

  楢淵 岩野目沢 坂部 新田 羽広 平岬 

旧本荘市 − 漆畑 赤田 平岡 山田 畑谷

松ケ崎 神沢 芦川 親川 石脇 川口 大浦 

南内越黒瀬 柴野 

 

 

1627  真田幸村の5女お田姫、久保田藩主佐竹義宣の実弟、檜山の多賀谷宣家に嫁す。

1626  佐竹家当主義直、将軍家密の賀席で居眠りし、仏門に追いやられる。

1628  初代亀田藩主岩城吉隆、久保田藩を継ぎ、佐竹義隆と名乗る。

1628  多賀谷宣家、(岩城宣隆と改名)2代藩主となる。

1634  宣隆お田の子重隆(名君月峰公)、3代藩主となる。

1635  お田の方、江戸にて死す。享年32歳。墓所妙慶寺。

1640  生駒高俊、讃岐17万石より矢島に入部。

1681  重隆一子景隆、文武両道なれど素行改まらず、廃嫡幽閉される。

1730  大野堰開通。赤平の新田開発。

 

1679  大正寺論争起る。岩城藩が秋田藩の川船に、税金を掛けようとする。

大正寺とは、現在の秋田市雄和新波の雄物川の左岸地域。

雄物川は、藩米を運び、生活物資を運ぶ、秋田藩の大動脈である。

ほぼ秋田藩の領内を流れているが、僅か3キロばかりが亀田藩の領内にある。

そこで、下り荷(ただし米は除く)にも役銭をかけようとし、論争になる。

この時は、亀田藩が折れた。

1753  亀田藩は再び下り荷(ただし米は除く)に役銭をかけようとする。

秋田藩はそれに対抗し、その部分だけ陸上輸送しようと考える。

亀田藩は代案として、土崎港から搬出していた蔵米に対する役銭の無役分を

2000石から10000石に上げるよう要求する。

1770  亀田藩は、役銭をかけることを通告する。

秋田藩は、陸上輸送で対抗するが、量が多いためまかない切れない。

1772  争いは幕府に持ち込まれ、亀田藩の全面敗訴となる。

 

 

1761  秋田退散事件

    藩政改革を提言するも、岩城隆恭(たかよし)公の怒りを買い、

    岩城帯刀 大内図書 岩城八百之助(後長善館学頭)

    武士107人 従者500人 と共に、赤平白山峠を越えて秋田に逃げる。

1770  秋田退散事件の関連者、亀田に戻る。

 

 

1785  百姓一揆。  岩城隆恕(たかのり)の代。

    払川・久兵衛,久作 小羽広・三太郎 金崎・与平治 を斬首。光善寺。

1789  本荘川(子吉川)境論論争。

1805  亀田秋田境界論争。

1828  シーボルト(オランダ人)事件。

1830  大通詞馬場為八郎はこれに連座し、亀田藩に預けられる。

    本来は座敷牢の身であるが、学問を得るため出入り自由にした。

    183870歳で他界。墓は妙慶寺。

 

1868  戊辰戦争

会津藩・庄内藩は、幕府側。

奥羽越烈藩同盟は、戦争を避け、会津藩・庄内藩を救いたい。

秋田藩・本荘藩・矢島藩・新庄藩は、新政府側。

 

亀田藩は、初めは秋田藩に付くが、後に庄内藩に付く。

    つまり亀田は、庄内藩に降服し、新政府軍にも降服している。

 

 

 

 

 

 

明治時代 1868191244年間)

1869  藩主隆邦隠居。亀田藩2000石減封。

近江宮川藩主堀田正誠の長男隆彰、13代藩主となる。

1871.7.15  廃藩置県により、亀田県となる。

1871.12.2  秋田県に併合される

1874  佐賀の乱

1875  明治8年、亀田小学校に木造2階建て校舎増築。

1877  西南戦争

1889  明治2241日  下記町村が合併し、由利郡亀田町誕生。

      滝俣村 福俣村 泉田村 富田村 赤平村 

      愛宕町 亀田町 大町 最上町 

      上蛇田村 下蛇田村 六呂田村 上黒川村 下黒川村

 

 

大正時代 1912192614年間)

1922  大正11年、亀田織物株式会社設立、

 

昭和時代 1926198963年間)

1934  昭和9年、中村孝世作詞 山田耕筰作曲により、町民歌完成。

1935  昭和10年、亀田大堤築造。

1955  昭和30年  亀田町と道川村が合併、岩城町となった。

 

 

 

 

平成時代 1989〜現在

2005年(平成17年)322日  下記市町が合併し、由利本荘市となった。

    岩城町 大内町 東由利町 本荘市 由利町 矢島町 鳥海町 西目町

    TDK城下町の 仁賀保町 金浦町 象潟町は、にかほ市になった。