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亀田藩の戊辰戦争

1868年=慶応4年=明治元年)

 

 

中央の動き年表 新暦    諸外国  幕府  朝廷

1853. 7. 8 黒船4隻来航。開国を迫る。幕府1年の猶予を要求。7.17香港に向かう。

1853. 7.27 12代将軍家慶病死。13代は家定(篤姫夫)病弱。

1854. 2.13 黒船9隻再来。香港にて将軍の死を聞き。3.31日米和親条約締結。

1858. 7.29 日米通商修好条約締結。後に、蘭露英仏とも。孝明天皇は認めず。

 

☆ 生糸の大量輸出。金銀の流出。経済が混乱。政情不安。攘夷論強まる。

 

1858. 8.14 13代家定病死。14代は家茂(慶福)(和宮夫)。

1859.10.27 吉田松陰、幕府により斬首される。討幕派の理論家。安政の大獄。

1860. 3.24 桜田門外の変。大老井伊直弼、水戸薩摩脱藩浪士より暗殺される。

1862. 5.21 寺田屋騒動。島津久光の命により、薩摩藩の尊王派、一掃される。

1862. 9.14 生麦事件。久光の行列前を横切ったイギリス人が切られる。

1862. 9.24 会津藩、京都守護職となる。

1863. 6. 6 将軍家茂、625日をもっての攘夷実行を諸藩に通達。

1863. 6.25 下関事件。長州藩、米仏蘭艦船を砲撃。報復されるも海上封鎖を継続。

1863. 8.15 薩英戦争。生麦事件の賠償問題。

1863. 7.16 8.20 幕府、長州藩を詰問。長州藩、幕府軍艦を拿捕,幕府使者を暗殺。

1863. 9.30 818日の政変。薩摩会津連携し、長州を追い出す。攘夷派公家七卿失脚。

1964. 7. 8 池田屋事件。長州土佐藩士を新鮮組が襲う。

1864. 8.20 禁門の変。京都守備隊会津と薩摩が、長州から天皇を守る。長州は朝敵。

1864. 9. 57 下関戦争。英米仏蘭計17隻、長州藩の砲台を破壊。

1864.12.16 第1次長州征伐。西郷隆盛参謀。長州恭順。高杉晋作逃亡。

1865. 1.12 高杉晋作80人で挙兵。長州藩、討幕に進む。

1865.11. 4 英仏蘭艦船8隻兵庫港に入る。孝明天皇への圧力。

1865.11.22 孝明天皇(和宮兄)、日米修好通商条約に勅許を出す。開国決定。

 

☆ ここで、日本の針路は開国と決定した。では、戊申戦争は何を争った。

 

1866. 3. 7 薩長同盟。

1866. 7.18 第2次長州征伐。薩摩出兵を拒否。長州連戦連勝。和睦。

1866. 7.20 徳川14代家茂、大阪城にて病死。15代は慶喜。

1866.12.25 孝明天皇崩御。後継は明治天皇、14歳。

1867.11. 9 徳川慶喜 大政奉還。政治部門のみ返還。将軍職は変換せず。

1867.12.10 近江屋事件。坂本龍馬、殺される。

1868. 1. 3 王政復古。新政府の樹立。

1868. 1. 6 慶喜、二条城から大阪城に移る。恭順の意思を示すため。

1868. 1.19 庄内 上ノ山 鯖江 岩槻 4藩、江戸薩摩屋敷焼き討ち。

1868. 1.27 鳥羽・伏見の戦い。薩摩 長州 土佐 勝利。会津 桑名 敗れる。

1868. 1.28 朝廷、薩長に錦旗を与える。薩長軍、官軍となる。

1868. 1.30 徳川慶喜 大阪城を退去し、江戸城に戻る。

1868. 1.31 朝廷、徳川慶喜に対し、追討令が出される。

1868. 5. 3 江戸城、無血開城。

 

 

各藩勢力の状態

 

徳川幕府  開国派。

      幕府は外国の文明技術力を良く知っていた。

      よって、黒船が来たとき、開国しか無いと思ったが、

      孝明天皇が鎖国を望み断固反対のため、板挟みとなる。

 

 

庄内藩   自衛。

      幕府の命により、江戸を警備していただけ。

      薩摩江戸屋敷を焼き討ちしたのは、焼き討ちされるのが目的で

      江戸を荒らしまわった薩摩の計略に引っかかってしまったもの。

 

 

会津藩   自衛。

      幕府の命により、京都の朝廷を守護していただけ。

      長州を取り締まったのは、天誅と称して暗殺をはたらいたり、

      都を荒らしまわったため。

 

 

奥羽越列藩同盟  庄内会津救済 ⇒ 自衛。

      会津藩庄内藩の赦免嘆願のために組織したものであり、

      奥羽鎮撫総督九条道孝に従いながらも、赦免嘆願を続ける。

      薩長の傲慢な態度と、下参謀世良修蔵()の奥羽皆敵との密書により、

      仙台藩士が世良修蔵を切り、以降自衛の途に進み薩長と戦う。

      秋田藩等脱退する藩も出た。

 

 

薩摩藩   公武合体派 ⇒ 尊王攘夷派 ⇒ 開国派。

      11代斉彬の養女篤姫を、13代家定の正室にした。

      慶喜と慶福の後継者争いでは、慶喜を応援した。朝廷も慶喜を望んだ。

      薩英戦争にて外国の技術力を知り、開国派に変わる。

      長州を応援したのはなぜか?

 

 

長州藩   討幕派 ⇒ 尊王攘夷派 ⇒ 開国派。

      関ヶ原では西軍の総大将。1/4に減封され討幕が国是となる。

      幕末、吉田松陰の松下村塾により、尊王攘夷論が広まる。

      天皇の密命により8月18日の政変が起こされ、京都を追われる。

      下関戦争にて外国の技術力を知り、開国派に変わる。

      朝敵である長州が、朝廷側となれたのはなぜか?

 

 

土佐藩   幕府派 ⇒ 尊王攘夷派 ⇒ 開国派。

      坂本龍馬が脱藩した藩。

      徳川慶喜に大政奉還を薦めるが、これらは徳川滅亡を防ぐため。

      徳川の味方であったが、最終的には薩長土肥の一藩となる。

 

 

肥前藩(佐賀藩) 中立派 ⇒ 尊王攘夷派 ⇒ 開国派。

      技術力は日本で一番であり、蒸気機関船 を自力で作った。

      静観を続けたが最終的には戊辰戦争に参加、薩長土肥の一藩に数えられる。

      軍備も近代化が進み、戊申戦争に勝てたのは肥前藩のおかげと言われる。

 

 

水戸藩   尊王攘夷派

      15代将軍慶喜は、10第藩主慶馬の弟であり、一橋家を継いだもの。

      保守派(諸生党)と改革派(天狗党)が激しく争そった。

 

 

朝廷    鎖国派

      孝明天皇の鎖国論を察した英仏蘭が、艦船8隻で兵庫港に入り

      これにより、技術力の差を知った天皇は、開国に踏み切る。

      天皇は、8月18日の政変を起こし長州派を遠ざけ、

      妹和宮を徳川に降嫁させるなど、徳川との関係は悪いものではなかった。

      討幕に変わったのはなぜか?

 

 

秋田藩の動き 1次

 1.16 岩倉具視より京都藩邸に、征討軍を助けるよう指示される。

 2.  指示により、近隣15藩に触れを出すが、ことごとく無視される。

 2.  出羽の触頭を命ぜられる。つまり、出羽14藩の筆頭となる。

 3. 2 奥羽鎮撫使、京都を立つ。大阪から船にて仙台へ。

     総督 左大臣 九条道孝    副総督 三位 沢為量

     参謀 少将  醍醐忠敬    下参謀 大山格之助(薩)世良修蔵(長)

     薩摩 長州 福岡 佐賀 小倉 計1200余人。

 4. 6 庄内征討を発令される。

 4.16 渋江内膳 1番隊約600名を率い、矢島方面に出動。

 4.18 総督府監軍 長尾清左衛門(薩)山本登雲助(長)来着。

 4.23 新庄にて戦端が開かれる。

 4.27 2番隊600名 新屋口から海岸筋を進軍。

    3番隊300名 泉北口から山道筋を進軍。

 4.29 遊撃隊100名 新屋口から海岸筋を進軍。

4.11 白石の奥羽列藩会議に出席。(藩の方針まだ定まらず)

4.11 沢副総督から急書が届く。(藩の方針定まらぬまま戦闘開始)

 4.19 1番隊   小滝村から南下し観音森を占領作戦 道に迷う

    2番隊主力 小砂川村から東進し観音森占領   1番隊来ず撤収

    2番隊別手 三崎峠を撃破し女鹿を占領作戦   同士討ち 銃撃戦の末退却

    遊撃隊   舟艇をもって吹浦に上陸作戦    船入手できず

    3番隊   矢島領百宅口から侵攻し升田に到着 銃撃戦の末退却

 4.23 2番隊600余名、庄内400余名に急襲され、武器兵糧馬を捨てて逃げる。

 

 

 

亀田藩の新政府軍としての動き1次

 4.30  亀田軍、庄内征討のため先発隊出兵。77名。

4. 2  後発隊出兵。268名。

 4. 8  11代藩主岩城隆邦、京で天皇に拝謁し勤皇を誓う。

 

     亀田軍、秋田軍と共に戦ったと思うが、詳細不明。

     なお、戦闘は無かったという記述もある。

 

 5. 8  亀田軍、亀田に帰着。

 5.25  岩城隆邦、京より亀田帰着。

 6.15  岩城隆邦、藩士・領民に対し、天皇に忠誠を尽くすべきとの論告を示す。

 

 

 

秋田藩の動き 2次

 7. 1 総督府の 九条総督・沢副総督・醍醐参謀 三卿が秋田に集結。

 7. 2 総督より庄内征討の先鋒を命ぜられる。

 7. 4 秋田藩士、仙台藩の使者を殺害。奥羽越列藩同盟から離脱決定。

 7. 6 政府軍、庄内征討のため出兵。740名。監軍山本登雲助()

以降、亀田藩を参照。

    もし、これが無ければどうなっていたか。

 

 

 

亀田藩の新政府軍としての動き2次

 7. 2 亀田藩・本荘藩・矢島藩、秋田応援の命を受ける。

 7. 7 松ヶ崎まで進軍してきた新政府軍が、亀田藩に宣戦布告する。

     これは、亀田藩を先鋒にするための作戦。

     「秋田県史」ではこれを、「誠に無礼至極の投簡」と評している。

 7.10 亀田藩、神谷男也を隊長とし、秋田渋江内膳隊と合流すべく出兵、136

     石脇にて渋江との会見を求めるが、本荘藩との酒宴の最中にて拒絶される。

     渋江には先鋒の願い出を強要される。

     軍義では、大師長根の先鋒を割り当てられる。本荘は応援。

     大師長根は、庄内領に入る本道(三崎峠)であり、激戦が予想されていた。

 7.13 三崎陣屋の戦いで、3名死亡、5名負傷。

 7.14 沓掛松原で交戦。1名負傷。

    庄内・仙台・米沢勢、新庄城を落とし、秋田を目指して侵攻。

    新庄城下3000戸焼失。

 7.16 三崎陣屋総攻撃。2名死亡、8名負傷。中の沢まで退却。

 7.28 鳥海山山頂越えの庄内藩に、矢島藩陥落。本荘に退却。

    矢島城下100戸焼失。

    本荘・佐賀の両藩は、矢島本道を守るため奉行免(西滝沢)に転進。

    亀田・本荘・福岡の各1小隊は、三崎より矢島の間道釜ケ台の守備に移動。

 8. 1 上浜の関村の戦いで、2名死亡、3名負傷。 本荘まで総退却。

    軍議の席で、応援を要請した亀田藩神谷隊長を、山本監軍は鉄扇で殴る。

 8. 2 亀田隊黒沢に転陣。一部は福山(吉沢駅西側の山)に移動。

    西滝沢で戦闘、破れる。

 8. 3 奉行免で戦闘。(山田合戦)新政府軍15名死亡。本荘まで総退却。

     この日の亀田軍について、「六郷藩維新外史」では逃げたと書いているが、

     それは間違いである。「亀田戊辰史」65ページ参照。

 8. 5 平沢・芹田で戦闘、大敗し本荘に退却。

    矢島口の新上条・吉沢で戦闘、大敗し本荘に退却。

     この日の亀田軍について、「六郷藩維新外史」では寝返ったと書いているが、

     それは間違いである。「亀田戊辰史」67ページ参照。

 8. 6 新政府軍、秋田に総退却。

     孤立した本荘藩は、夜6時頃本荘城自焼。秋田に退却。

     本荘城下  戸焼失。

     亀田藩は、福山に置き去りにされた。

 8. 7 吉川多喜見、下浜にて山本監軍と会見。亀田軍置き去りの件を質す。

    回答は、好きにしてよろしいとのこと。(つまりは、見捨てるという意味)

 8. 8  亀田藩、庄内藩に降伏。

 8.11  藩主隆邦、鶴岡に赴く。

 8.13  庄内勢4番大隊(山手)、亀田城下に進駐。

 8.14  庄内勢3番大隊(浜手)、亀田城下に進駐。

 9.15  仙台藩降伏。

 9.22  会津藩降伏。

 

 

 

亀田藩の奥羽越烈藩同盟軍としての動き 長浜口

 8.18  庄内3番大隊亀田隊、羽川にて新政府軍と戦闘。庄内藩25名死傷。

 8.29  君ケ野 名ケ沢 勝手にて戦闘。庄内藩2名死亡11名負傷。

 9.12  庄内勢、長浜を奇襲するが、撃退される。亀田勢2名死亡3名負傷。

 

 

 

亀田藩の奥羽越烈藩同盟軍としての動き 大正寺口

 8.17 庄内4番大隊亀田隊、神ケ村に進駐。

 8.18 女米木攻撃、川を挟んで打ち合い。

    新波にて砲撃戦。亀田軍2名負傷。

    清水木にて砲撃戦。庄内軍1名死亡1名負傷。

 8.24 清水木より渡河。子種にて戦闘。

 9. 4 三ツ口沢より渡河。庄内藩2名死亡2名負傷。

 9. 9 秋田勢、椿台に総退却。庄内勢、向野に集結。

 9.10 糠塚山争奪戦。占拠する。亀田勢2名死亡。庄内藩1名死亡7名負傷。

 9.11 椿台の決戦。庄内勢大敗。糠塚山を放棄し神ケ村に退却。

    亀田勢3名死亡3名負傷。庄内藩8名死亡90名負傷。

 

 

糠塚山は、秋田空港と教養大の、間に有ります。秋田城までは16キロです。

ほぼ連戦連勝であった庄内軍が、最後の一戦に完敗しました。

理由は、背水の陣、新式銃の到着、応援の佐賀兵の到着(?)です。

 

 

亀田藩の逃避行

 9.16 庄内勢、全軍撤退開始。

 9.18 亀田まで撤退。

 9.19 本荘まで撤退。

     藩士と家族1700人の逃避行が始まった。庄内藩はそれを援護した。

     殿の3番大隊は、病人 子供 老人のため、象潟から2艘の船を出した。

     これは、「亀田藩の立ち退きを見届けてから引き上げよ」との藩命による。

 

 

秋田藩の所業

 9.20 亀田城下に、秋田藩の渋江内膳隊が進駐した。

 9.21 山本鑑軍は、荒川隊と共に進駐し、亀田城を焼き払った。

    (雄和町教育委員会編纂の「雄和の戊辰戦争」には、

     高尾村の肝煎大友定之助が残した日記の9月21日の記録として

    「御上御道具、その他の品物は、皆、秋田へ船にて参る」と載せられている)

     私の妻は御典医の子孫ですが、水甕1個が残っていただけ、と聞いています。

     旧藩祭りでは、書画骨董も展示されますが、ほとんど他所からの借り物です。

 

 

亀田藩のその後

 9.27 庄内勢、三崎口にて新政府軍と交戦。

 9.28 庄内藩亀田藩、新政府軍に降伏。

10.25 藩主隆邦、亀田に戻り、薬王寺に入る。

12. 7 2000石減封の上、隠居申しつけられる。

     由利郡の萱ケ沢村・碇田村・新波村の一部 仙北軍の正手沢村・江原田村

12.22 藩主隆邦、浅草総泉寺に入り、謹慎。

 

 

庄内藩は新庄城下を焼き尽くしています。

これは、新庄藩が、政府側⇒庄内に負けて庄内側⇒新政府軍が来たので新政府軍側と

態度が変わったことが理由です。

ですが、亀田城下を焼いていません。  (焼いたのは秋田藩です)

なぜでしょうか。

三崎口での戦いでは、満足な武器も無く、常に最前線に立たされ、大きな損害をだしています。

庄内兵には、かわいそうだから当てるな、とまで言われています。

戦後の処罰でも、亀田藩は2万石の内2千石の減封と藩主の隠居だけです。

このようなところにも、亀田という小藩の苦労が表われているような気がします。