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           亀田の領主(天鷺郷 赤尾津郷 亀田郷)

 

 

飛鳥時代 592710118年間)

658660  阿倍比羅夫、日本海側の蝦夷を攻める。(カラフト ロシアまで)

      鳥海山麓豊岡岱の振名、軍に加わる。

 

 

奈良時代 71079484年間)

733   庄内出羽柵、秋田に移動。(秋田市新屋)

765   秋田城(秋田市高清水岡)設置。出羽柵を移動。

    続日本記の780年に、由利柵が出てくる。(由利の初見)

 

 

平安時代 7941185391年間)

801   天鷺速男坂上田村麻呂に滅ぼされる。

    出羽八郎維名(振名の子孫か)、先鋒を務める。

1062  前9年の役 安部氏滅ぶ。

1087  後三年の役 清原氏滅ぶ。

 

 

鎌倉時代 11851333149年間)

1185  由利八郎維友(これとも)、上直根の真坂次郎に襲われ、天鷺城に逃れる。

1187  由利太夫維晟(これなり)、真坂を滅ぼし天鷺城に入るが、根城館に戻る。

1187  由利弾正維知、亀田城に置かれる。

1189  奥州合戦 藤原氏滅ぶ。

    由利仲八郎維平藤原に味方し頼朝に敗れるが、由利の所領は安堵される。

1213  由利維久、和田の乱にて謀反を疑がわれ、所領を没収される。

    大弐局、由利郡を与えられ、甥の小笠原大井朝光を養子にし、所領を譲る。

    これにより、信州の大井氏が入部。  第1次の由利十二頭

1233  由利維久、許されて浜館に入り、由利十二頭のひとりとなった。

1324  由利維政政春?、庄内?栗山館の鳥海弥三郎宗盛に滅ぼされる。

    由利維政の子である維貴は、信州に逃れる。

1326  日向入道雲海、鳥海弥三郎宗盛により、荒沢(新沢)に追われる。

           660    801    1185 1189 1213   1324 1339

由利氏系図  振名−?−維名−?−維友−維平−維久−?−維政−維貴

 

 

室町時代 13331573240年間)

1339  小笠原光貞由利維貴に従い入部、大野築館に入り赤尾津伯耆守を名乗る。

    この時、天鷺城は荒廃。

1450  小介川立貞、年貢未納により真言宗当山派本山醍醐寺三宝院より訴えられる。

    小介川は後に赤尾津を名乗る。

1467  由利十二頭、幕府の命により、信州より下向。  第2次由利十二頭。

    赤尾津孫八(孫次郎道益)、赤尾津城に入る。

    由利郡の世が乱れ、住民が幕府に願ったもの。

    なお、1394のこととも、鎌倉時代のこととも、諸説ある。

1532  赤尾津左衛門尉家保前田又左衛門道信(大曲)の侵攻を迎え撃つ。

1572  赤尾津左衛門、前田氏戸沢氏連合軍に討たれる。

 

 

 

安土桃山時代 1573160330年間)

1579  赤尾津二郎羽川、打越 岩谷 石沢 潟保 らと大曲城を落とす。

1582  赤尾津二郎 小介川図書、庄内大宝寺氏の侵攻を防ぐ。

1582  由利十二頭、安東氏と共に小野寺氏を攻める。(大沢山合戦)

1583  小介川図書、庄内大宝寺氏に攻められるが守る。(新沢合戦)

1587  赤尾津九郎、羽川新館を奪い、羽川主膳正九郎を名乗る。

1588  由利十二頭、矢島満易を滅ぼす。

1590  由利十二頭、豊臣秀吉の天下統一に際しては、知行を安堵された。

1592  由利5人衆、文禄の役(朝鮮出兵)では、大谷吉継に従った。

1600  赤尾津孫次郎会津・上杉攻めに参戦するも、家康のUターンを見て帰国。

1602  由利十二頭、ことごとく領地召上げられる。

 

 

 

この頃、以下の名前も出て来るが未調査。

1582天正1011  小介川治部少輔光長 大宝寺氏の由利侵攻

1596文禄5 小介川孫次郎

小介川信濃守

赤尾津孫次郎道益 由利十二頭記

赤尾津光政 15??1597 庄内大宝寺氏に攻められるが

赤尾津道俊15??1600 

赤尾津長保 1590九戸の乱に出陣

 

 

 

 

江戸時代 16031868265年間)

1603  最上義光、関ヶ原合戦の功により、由利郡を与えられる。

    楯岡満茂、湯沢城から赤尾津城に移る。

1612  楯岡満茂は本荘城に移り、赤尾津城は廃城となる。

1622  最上氏が、お家騒動を理由に改易となる。

1622  本多正純が宇都宮15万石から、由利5万5千石に転封される。

1623  本多正純はこれを拒否、由利領を没収され、身は秋田藩佐竹氏に預けられる。

    由利郡は、亀田藩 本荘藩 矢島藩 仁賀保藩 に分割される。

    岩城吉隆、信濃川中島2万石より、亀田2万石に転封される。

1628  岩城吉隆、久保田藩を継ぎ、佐竹義隆と名乗る。

1628  多賀谷宣家(岩城宣隆と改名)、檜山より入部、2代藩主となる。

 

 

亀田藩岩城家藩主一覧

 O 岩城貞隆(さだたか)佐竹18代義重三男。義重長男は久保田初代佐竹義宣。

            関ヶ原の合戦においての不戦の罪により、川中島に転封。

@  岩城吉隆(よしたか)岩城16代貞隆長男。信州川中島1万石から転封。

            久保田2代として引き抜かれる。

A  岩城宣隆(のぶたか)佐竹18代義重四男。檜山城主多賀谷宣家。

            継室は真田幸村5女御田の方。

            初代吉隆の後継として入る。

B    岩城重隆(しげたか)宣隆 御田の方長男。名君月峰公。なお、嫡男景隆は廃嫡。

C    岩城秀隆(ひでたか)景隆長男。

D    岩城隆韶(たかつぐ)伊達村輿の子。正宗の四代後。亀田藩学の基礎を作った。

E    岩城隆恭(たかよし)伊達村望の二男。隆韶の末期養子。飢饉のため苦労する。

            これにより、貞隆により途絶えた岩城の血が復活。

            そのかわり、久保田との間で波風が立つようになる。

F    岩城隆恕(たかのり)隆恭次男。

G    岩城隆喜(たかひろ)隆恕長男。

H    岩城隆永(たかなが)隆喜四男。19才で死去。

I    岩城隆信(たかのぶ)隆喜五男。18才で死去。

J    岩城隆政(たかまさ)隆喜六男。20才で死去。

K    岩城隆邦(たかくに)隆喜七男。最後の亀田藩主。戊辰戦争により隠居命令。

L    岩城隆彰(たかあき)近江宮川藩・堀田正誠の長男。17才で死去。

M    岩城隆治(    )隆邦長男。夭逝。

N    岩城隆長(たかつね)隆邦三男。子爵。活発な起業活動で詐欺に遭い32才で隠居。

O    岩城隆邦(たかくに)隆長隠居により、十二代藩主が再び家督相続。子爵。

P    岩城隆徳(    )子爵・青山幸宜四男。

Q    岩城隆宜(    )