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                   真田氏

 

 

真田氏(長野県上田市真田町)は、東信濃の古くからの豪族であり、

甲斐武田氏の重臣であった。

 

長篠の合戦(1575)で織田徳川連合軍と戦い、長男信綱 次男昌輝を失くし、

そのため、三男昌幸が跡を継いだ。

武田氏滅亡後は、織田信長に恭順した。

 

信長亡き後は、武田領をめぐる、徳川 北条 上杉 3家の争いに巻き込まれ、

上杉勢として2千の兵で徳川勢7千と戦い、城を守り切る。(第1次上田合戦 1585

 

最終的には豊臣秀吉の臣下となり、秀吉の命により徳川と和解する。

昌幸長男信幸と家康の養女(本多忠勝娘)の婚姻が成る。

 

これにより、2家体制となる。

豊臣方  昌幸 信繁(幸村) ――― 上田城10万石

徳川方  信幸        ――― 沼田城 3万石

 

関ヶ原の戦いでは、西軍昌幸信繁(幸村) 東軍信幸に分かれ、合い争うことになる。

上田城では、2千の兵で徳川秀忠4万の兵を足止めにする。(第2次上田合戦 1600

 

昌幸信繁(幸村)は、和歌山県九度山(高野山領)に流刑となり、

昌幸はここで亡くなる。

 

大坂冬の陣(1614)夏の陣(1615)でも、兄弟合い争うこととなる。

信繁(幸村)は討死し、信幸が上田に移り真田家を継ぐ。

 

幸隆(真田本城)―┬―信綱(長篠の戦いで討死)

         ├―昌輝(長篠の戦いで討死)

         ├―昌幸(上田城)  ―┬―信幸(後、信之 松代藩初代)

         ├―信昌(信尹)    ├―信繁(幸村)(大阪夏の陣で討死)

         └―高勝(金井)    ├―信勝(徳川家臣)

                     └―昌親(江戸幕府旗本)

 

 

                真田信繁(幸村)

 

 

本名は信繁。幸村名の文書は無い。

関ヶ原の合戦 大阪冬の陣 大阪夏の陣で、徳川家康を大いに悩ませ、

後に 軍記物 講談 小説等で取り上げられ、真田幸村として広く知られるようになった

 

 

父  真田昌幸。

母  宇多頼忠娘 山手殿 信幸の母でもある。

 

 

姉  村松殿   小山田茂誠正室

妹        真田幸政正室

妹        鎌原重春正室

妹        保科正光正室

妹  菊姫    宇多瀬頼次正室 ⇒ 滝川一積正室

妹        妻木頼照正室

妹  於楽

 

 

堀田興重娘    長女 阿菊       石合重定正室

高梨内記娘    二女 於市       早世 九度山にて病死

大谷吉継娘竹林院 三女 阿梅    伊達 片倉重長継室 大阪城に入るが助けられる

大谷吉継娘竹林院 四女 あくり      滝川一益養女⇒蒲生郷喜正室

大谷吉継娘竹林院 長男 大介 1601    幸昌 大阪夏の陣にて秀頼と共に自刃

豊臣秀次娘隆清院 五女 なほ 1604    岩城2代宣隆継室 顕性院 御田姫

大谷吉継娘竹林院 六女 阿昌蒲   伊達 青木次郎飢右衛門正室⇒片倉定広正室

大谷吉継娘竹林院 七女 おかね   伊達 石川貞清正室

大谷吉継娘竹林院 次男 大八 1612 伊達 片倉守信 仙台真田家初代当主

豊臣秀次娘隆清院 三男 幸信 1615    岩城真田家初代 祖父の姓三好を名乗る

九度山娘?    八女 

         九女 

九度山娘?    四男 之親       讃岐の国にて石田姓を名乗る

 

長女二女は上田生まれ。三男は京都で隠遁中に生まれている。

他の10人は、九度山に配流されていた15年間に生まれた子。

 

 

 

         豊臣秀次娘  真田幸村継室隆清院  御田姫母

 

 

木下弥右衛門―┬―日秀尼(三好吉房正室)―┬―秀次(継室一の台)―┬―姉

(大政所)  |            |          └―隆清院

       |            |   (側室小督局)―――菊

       |            ├―秀勝(羽柴)

       |            └―秀保(秀長養子)

       └―豊臣秀吉(淀殿)―――鶴松(早世) 秀頼

竹 阿 弥――┬―豊臣秀長

(大政所)  └―旭姫  佐治日向守正室⇒福田吉成正室⇒徳川家康継室

 

 

秀吉は、鶴松が早世したため、三好秀次を養子とし、後継ぎとした。

ところが、秀頼が生まれたため、秀次がジャマになった。と言う説が主流。

 

 

1595年、秀吉の命により父秀次は切腹。(切腹13 改易4 流罪3 その他5 殉死5

母一の台は秀次の妻子と共に斬首される。(子4男1女 側室 侍女 計39名)

秀次の子で生き残ったのは上の3人だけ。

 

 

三好吉房  出自は不明。木下性を与えられ、木下弥助と名乗ったが、

      秀次が三好康長の養子となったことから、三好を名乗った。

日秀尼   豊臣秀吉の姉とも。

一の台   右大臣 菊亭大納言晴季の娘。

 

 

姉    梅小路に居を構えていた公家に嫁す。

    (梅小路家では年代が合わないので、他の公家)

隆清院  真田信繁(幸村)の側室となる。

     五女なお 三男幸信 の母。なおは、岩城2代藩主の継室御田の方。

菊    当時1歳。祖父の弟の子後藤興義に預けられる。

     後に山口朝安妻。結婚5日にして夫は大阪城に入る。

     密書の運搬などに活躍する。後に徳川方に処刑される。 20才。

 

 

 

 

 

     真田信繁(幸村)五女なほ  岩城2代宣隆継室顕性院  御田の方

 

 

1604 九度山で生まれる。

1614 母隆清院と共に大阪城に入る。(冬の陣11月)

1615 夏の陣(5月)直前の3月、身重の母と共に、母の祖母日秀尼の元に身を寄せる。

徳川の手が伸びると、母隆清院は、姉を頼って梅小路に身を隠し、

さらに、米屋次郎兵衛という町屋に潜み、7月三男幸信を生む。

田は町人の姿で居場所を転々とするが、捕えられ江戸に送られる。

その処分は、伯父の計らいで、江戸城勤務という軽いものであった。

 

1618 許されて母のいる京に上る。

薙刀の指南をしていたが、礼儀作法の心得を買われ伏見城?の奥女中となる。

1626 久保田城主佐竹義宣 檜山城主多賀谷宣家兄弟の給仕役を務め、見染められる。

 

1627 檜山城主多賀谷宣家の側室となり、翌年、重隆(月峰公)を生む。

1628 亀田藩初代岩城吉隆が、久保田藩2代佐竹義隆として引き抜かれる。

1628 多賀谷宣家、亀田藩2代として入り、岩城宣隆と称す。御田姫は継室となる。

1629 妙慶寺を久保田に建立。後亀田に移す。

1635 寛永12年6月11日、江戸にて死去。享年32歳。

1656 岩城重隆、3代を継ぐ。

 

 

 

      真田信繁(幸村)三男幸信  岩城真田家初代三好幸信

 

 

1615 父の死の2ケ月後に、京で生まれる。

   姉なほに呼ばれ、岩城家家臣となる。三好左馬之助幸信380石。

1667 死去。享年53才。

   真田十勇士に、亀田出身の三好清海入道伊三入道兄弟がいるのは、幸信に依る。

 

 

幸信――隆長――隆長――隆長――隆矩――幸政――幸由――幸得――幸友――幸厚――

――隆長――隆炬――幸憲――幸和

 

  注 地元亀田では、祖父の三好姓を名乗ったと伝わっています。

    ネットには真田姓で載っていましたので、

    真田に戻しているのかも知れません。