あっけら館 本館
(日電時代の与太話)
高校は、昭和41年に卒業したが、この年は不景気だった。
私は、入社試験を9社受けた。
1社目は、日本IBMだった。
練習のため大勢が受けた。
1次はパスしたが、2次は見事に落ちた。
2社目は、八王子の某通信機器メーカーだった。
これは受かった。
ところが、12/25の夜に、キャンセルの電報が来た。
クリスマスだと言うのに。
それからは、片っ端から受けた。
受かるのは受かるのだが、試験のときにその会社を見ているものだから、
全部、お断りさせて頂いた。
先生も困っただろう。(来年の求職に影響するので)
こっちも、就職浪人を覚悟した。
ところが卒業直前の3/3に、日本電気の追加募集があった。
幸いにも、拾って頂けた。
日本電気では、三田事業所第1技術部第1課に配属され、
NTT向けクロスバー型市外電話交換機の回路設計に携わった。
一口で言えば、リレーのお化けである。
と言っても、既に回路は完成しているから、その改良である。
毎週水曜日に電電公社に赴き、全国で発生したトラブルを聞き、
次回に、その改善策を検討するのである。
当時、電電4社(後に5社になる)と呼ばれた4メーカーの共同作業であった。
その改善策であるが、常に4社共、同じであった。
高卒は、私ひとりであったので、少しは自信が付いた。
しかし、その改善策の重みは違っていたと、今は思う。
100検討してたどり着いたものと、
10しか検討しないでたどり着いたものは、
たとえ、ものは同じであっても、信頼度が違うと思うのである。
改善策が見つかったからと言って、安心は出来ない。
実は、これからが大変なのである。
既に納入したものをどうしたかは忘れたが、
少なくとも、製造中のものは、改良しなければならない。
私に出来るのは、回路図を書くだけである。
実装図も布線図も、書いてもらわなければならない。
製造現場では、改良してもらわなければならない。
こういうことを、その部門の長にお願いして回るのである。
前近代的というかも知れないが、
こういうことをすると、人間関係が良くなる。
当時、私のあだ名は「お釈迦」であった。
失敗が多かったからなのかどうかは判らない。
が、頭を下げに言った時、「笑顔で謝りに来るのはお前くらいだ」、
と、言われたことがある。
が、皮肉とは感じなかった。
無理にでも、お釈迦様と思いたい。
実は、私が担当していたのは、マーカーである。
これは、交換機の頭脳部である。
パソコンで言えば、OSである。
マイクロソフトだって、アップデートするではないか。
間違わない方がおかしいではないか。
と、今も密かに思っている。
配属された時、仕事はしなくていいから、これを覚えろと渡されたのが
C82型のマーカーの回路図である。
A1サイズで、24〜5枚有ったのではないだろうか、
ただし、説明書は無い。
ユーザーであるNTTと共同開発した機械である。
説明書が無いのも当然である。
交換機の「こ」の字も知らない私にとっては、雲をつかむような話だ。
しかも、周辺機器も判らなければ、マーカーを判ることは出来ない。
幸い、動作図はあった。
動作は×印、復旧は−印で、リレーの動きを時間を追って書いてある。
しかし、1個のリレーには普通12個の接点がる。
中には、24個もあるものもある。
このリレー接点1個1個の動作を追った。
この作業を半年間やった。
こうして、C82型クロスバー交換機(4線式市外交換機)を覚えた。
C82が判ればC63(2線式市外交換機)はすぐ判る。
一見ムダにみえるが、こうして覚えたことは、後に大いに役に立った。
教えられたものとは、理解の深さが違うのである。
4年後、海外技術部第3課に転属になった。
セイロン(現スリランカ)のODAが決まったからである。
市外交換機1局と市内交換機19局の工事である。
ここでも私は、C82型市外交換機のマーカーを担当することになった。
今回は、スリランカ仕様の回路図を一から書かなければならない。
男子は全員旅館に缶詰めになった。
缶詰といっても、朝から晩まで旅館にいる訳ではない。
8時から5時までは会社で仕事し、その後旅館で仕事するのである。
この時、女子社員からクレームが付いた。
花嫁修業に行けないというのが、その理由であった。
私は、「須田さんはわからない」と言われた。
考えているのか、いねむりしているのか、ちょっと見ではわからないのだそうだ。
今でこそ、皆電卓を持っているが、当時そんなものは無かった。
当時の電卓は、ネオン管を使った大きなもので、部に1台しかなかった。
もっぱら、手回し計算機であった。
右に回せば足し算、左に回せば引き算である。
掛け算は、位毎に足し算を行うのである。
そろばんの方が早かった。
計算尺もまだ健在だった。
答一発カシオミニが出たのは、もう少し後と思う。
パソコンなどというものは、陰も形も無かった。
メモリといえば、フェライトコアの時代である。
計算機といえば、今でいうところの、大型計算機のことである。
当然、私に使う能力は無い。
ブール代数というものがある。
私たちは、リレー回路を簡略化するのに使った。
要するに、リレー接点をケチるのに使用したのである。
交換機の回路設計で一番大切なものは、優先順位の設定である。
入力が100有ったとして、1番が常に最優先で、100番が常に最劣勢だったとしたら、
100番の入力は永久に接続されることは無い。
同じ事が、出力に対しても言える。
どうやって解決していたかは、もう忘れた。
交換機とは、動かないものである。
特に、試験もできない、一発勝負の海外ものはなおさらである。
設計中、部長が、
交換機は動いた試しは無いよ、
しかし、最後まで動かなかった試しも無いよ、
と融通のきかない私に、暗に手抜きを勧めたことがある。
70%動けばOKなのだそうだ。
きっと、設計が遅れていたのだろう。
それからは、大いに手を抜いた。
その代わり、リレーに余裕をもたせた。
1個で済むところを、わざと2個使うのである。
この、テクニックは、後に大いに役に立った。
なにしろ、予備のリレーが、既に実装されているのである。
現地改造が、部品手配無しに出来るのである。
スリランカへの出張命令が出た。
半年間、現地の技術者を教育しろとの事だった。
これは、楽だった。
何しろ、相手はブッダの国である。
虫も殺さない(本当に殺さない)国である。
暑さと南京虫を除けば、天国だった。
しかし、半年では済まなかった。
今度は最後まで居ろと言う。
技術部からは、係長と主任と私の3人が来ていたが、
主任が帰り、係長が帰り、最後の半年間は私一人であった。
仕事は、NTT時代と同じようなものであった。
ただし、考える時間は、極端に少ない。
現場に散った調整部隊は土曜日の夜に戻ってきて、
月曜日の朝には散って行く。
その間に、考えなければならない。
70パーセントしか動かない交換機である。
最盛期、土日はいつも、徹夜状態だった。
セイロンには2年居たが、
その間に、一世一代の大失敗をしている。
セイロン中の市外通話を、4時間止めてしまったのである。
仕事も終盤となり、かなりの数が開局していた。
その使用率を測ると、予想より多いのである。
このままでは、C82交換機がパンクしてしまう。
急遽、増強することになった。
相手は、既に開局している交換機である。
最後に切替作業が必要である。
これを私がやることとした。
ところが、作業開始して、数時間後、
突然、交換機が止まってしまった。
原因は、
誰かが、マスターテストフレームのスイッチをONにしたことだった。
判ってしまえば簡単だが、判るまでは大変である。
日本であれば、局長の首が飛ぶところであろうが、
そこは、ブッダの国である、
そうなったと言う話は聞いていない。
私に対する処分も、無かった。
幸いというか、スイッチをONにした人も判らなかった。
(日本人は私しかいなかったから、現地の人である)
その後も、客先と私たちとの間には変化は無かった。
不幸中の幸いである。
今思えば、一人ではやるべきでなかった。
ひとりで考えると、堂々巡りをする時がある。
もし、誰か居たら、もっと早く気がついたかも知れない。
実際の作業は誰かにやってもらい、
私は、チェックに専念すべきだった。
セイロンに建設した20局の名前は、今でも覚えている。
C82型 コロンボ
C460型 コロンボ アヴィッサウエラ ゴール ガンパハ ハンバントタ
ハットン カルタラ キャンディ マタレ マタラ ナワラピティヤ
ネゴンボ パナドゥラ
C460型特殊 ヌワラエリア
C21型 アンバランゴーダ ウエリガマ タンゴール
C11型 ペラデニア カツガストタ
である。
上記のように、5機種もある。
よくやったものだと思う。
セイロンでの2年間は、その後の私を変えた。
何があっても、あたふたしなくなった。
最後には何とかなるという、変な自信が付いた。
面の皮も、厚くなったであろう。
セイロンから帰ってきて、すぐ辞表を出した。
仕事が嫌だった訳ではない。
むしろ、とても面白かった。
理由は、3つある。
@ 当時、電子交換機事業部で、電子交換機の開発をしていたが、
それが完成に近づいていた。
つまり、クロスバーの技術は、古くなっていた。
A 私の例でも判るように、海外出張は高卒が多い。
どうしても、既に出来上がったものを動かすのは高卒にやらせ、
新たな開発は大卒にやらせる、ということになる。
このままでは、日本では死ねなくなると思った。
A 弟が家を出ていた。
しかし、すぐには辞めれなかった。
セイロン向け訓練用交換機を受注したからである。
これは私ひとりが、担当となった。
結局、辞めたのは1年後である。
家へは自転車で戻った。
相模原から5日かかった。
一晩だけ、風呂に入りたくて宿屋に泊まったが、
後は野宿だった。
もっぱら、神社の軒先を借りたが、
非常にさびしいものだった。
NTT担当の頃は、比較的ヒマだった。
それで、多くの肩書きをもっていた。
寮の運営委員 (500人もいる大きな寮である)
第1技術部の親睦会委員
労働組合の青年部委員
41会運営委員 (昭和41年度入社組の会である)
ワカサギ運営委員 (遊びの会である この中から2組の夫婦が誕生した)
その他にもいろいろなサークルに入っていた。
秋田県人会 (宴会の神様がそろっていた)
登山サークル (フォークダンスばかりしていた)
コーラス (音痴なのに)
アコーデオン (全然進歩しなかった)
とにかく、遊ぶのに忙しい時代ではあった。
このページを書くためにいろいろ調べていたら、
大コロンボ圏電気通信網整備事業(U)といのを見つけた。
(U)と言うからには、(T)も有ったのだろう。
セイロンも、電子交換機の時代に入っている。
NTTが事業主体になったようだから、日電が工事したかもしれない。
私が関係したのは、
OCADS(Outside Colombo Area Development Scheme)であった。
コロンボ外圏発展計画とでも訳せばよいのだろうか。
クロスバ交換機の写真は、見つけることが出来なかった。
が、部分的な写真はみつけた。
左側の青いのが、たぶんコンデンサ。
中央はリレー。
下側がクロスバースイッチ。
である。
なぜクロスバーと言うのか。
縦のバーと、横のバーが、クロスしていて、
その交点にスイッチが設けられているからである。
交換機の種類はおおざっぱに分けて、次の4種類である。
手動交換機
自動交換機―――ステップバイステップ交換機―――A型 H型
―――クロスバー交換機
―――電子交換機
当時、セイロンではA型交換機が使われていた。