あっけら館 新館
(松下時代の与太話)
日本電気を辞めた昭和49年も、不景気の年だった。
職業安定所に通い詰めても、全くらちがあかなかった。
3ケ月間、無職であった。
思い余って、母校を訪ねた。
その時に、試験は終わっているが、と紹介されたのが、
秋田ナショナル通信特機である。
現在の、パナソニックSSマーケテング株式会社東北社秋田支店である。
運良く、採用して頂いた。
秋田ナショナル通信特機は、松下の子会社である。
松下が90%出資した、松下の業務用商品を売るための会社である。
専務は、松下から出向してきていた。
同様な子会社として、
秋田ナショナル家電販売
秋田ナショナル住宅設備機器
秋田ナショナルクレジット
があった。
1月6日が、初出勤日であった。
ひと通りの説明の後、早速売りに言って来いという。
いわゆる、飛び込み訪問である。
商品はFAXである。
今と違って、遅くて高い。
さっぱり売れない日が続いた。
あるとき、石井専務に同行し、
FAXの説明に行った事がある。
成績の上がらない私に対する、温情だったと思う。
そのうち、無線機も担当することになった。
広報無線 警察無線 タクシー無線、業務無線 簡易無線である。
これは、そこそこ売れた。
しかし、ノルマを達成することは、めったに無かった。
無線機を担当することになって、肝をつぶした。
無線機は、5年毎に免許更新が必要であるが、
その更新モレがたくさん見つかったのである。
再度、免許を取らねばならない。
お客様を、頭を下げて回った。
4年間営業に携わったが、成績はさっぱりだった。
とうとう、窓口に回された。
しかし、ここでは本領を発揮した。
人の相手はさっぱりでも、物が相手なら得意である。
初めて部下も持った。
男子ひとり、女子ふたり、嘱託ひとりである。
窓口業務は彼らに任せ、私はもっぱら管理にまわった。
大型物件は、工事材料の管理までもした。
長期物件は、期日指定で、半年も前に注文した。
貸し出した商品は、ネジ1本までチェックした。
在庫は切れなくなった。
違算はほとんど無くなった。
特機商品の販売ルートは専門化されたため、
現在、PSSMが扱っている商品は視聴覚機器だけであるが、
当時の扱い商品は多種多様であった。
視聴覚機器 放送 音響 映像
通信機器 無線機 電話 インターホン ナースコール
事務機器 FAX パソコン ワープロ PPC
自動車機器 カークーラー カーステレオ
食品機器 業務用冷蔵庫冷凍庫 自動販売機 調理機器
品番を覚えるだけでも大変だった。
私は、年を取っているというだけの、無冠の上司であるが、
それでも、上司である。
部下よりは、商品を知っていなければならない。
とにかく、カタログだけは読んだ。
倉庫は商品であふれていた。
数は少ないが、種類が多いのである。
大型物件が決まると、別に倉庫を借りた。
そうすると、その倉庫の管理もしなければならない。
さらに、現場への搬入もしなければならない。
結構、忙しかった。
窓口業務を担当していた2年間に、大型物件が4件あった。
秋田市文化会館
男鹿市文化会館
田沢湖町文化会館
秋田県民会館
である。
音響設備の基礎知識は、この時に身に付けたと思う。
しかし、ここも2年で終わった。
大館営業所への転勤である。
また、営業に逆戻りである。
再び、苦難の日が続いた。
しかしである。
ここは、8ケ月で終わった。
本社に戻され、電設営業担当である。
同僚は、電設営業だけはやりたくないと言っていた。
ゼネコン>サブコン>電材店>松下である。
つまり、曾孫請けであり、立場が非常に弱いのである。
間に合わなければ、盆も正月も日曜も夜も無いのである。
当時は、スピーカは付けておくから、アンプだけ頼む、というやりかたがほとんどだった。
その結果、スピーカの結線ミスが少なからず発生した。
3線引きの意味も知らない人も取り付けるのである。
当然といえば当然である。
スピーカを全て撤去し、付け直したことも少なくない。
しかも、その費用はどこからも出ない。
電設営業の苦労はもうひとつある。
前記のように、納入ルートが複雑である。
その分、マージンも多く必要であるが、
定価1000円のものを2000円で売るわけにもいかない。
競争も激しいので、逆に安くしなければならない。
なかなかペイしない業界なのである。
電設営業は、営業ではあるが、ある意味、営業ではない。
建物内の弱電設備一切が対象である。
当然、システム設計技術が必要になる。
つまり、技術なのである。
ゼロから始めるテクニックは、日電で身に付けてある。
そこで、テクニカルガイドを読むことから始めた。
カタログのデータでは、まるで不足なのである。
機器という機器の、機能性能を、頭に叩き込んだ。
この時、夜鷹というあだ名が付いた。
当時、サービス部門に鈴木さんという人がいた。
電設関係に非常に詳しい人であった。
しかしこの人は、ただ教えてくれといっても教えてくれない人だった。
ここまで調べたが、ここが判らないから教えてくれと言う必要があった。
私の師匠とも言うべき人であった。
電設営業は、技術面でもやることはたくさんあった。
当時、会社には、サービス部門は有ったが、技術部門工事部門は無かったからである。
@ 設計事務所の依頼により、設計図面を描く
A 受注したら、実施図面を描き、納入仕様書をつくる
B 必要な機器材料をリストアップし、発注する
C 特注品の製作図を描き、製作してもらう
D サブコンが描いた施工図を、チェックする
E 施工上の打ち合わせをする
F 機器を設置結線調整する
G 完成図書を作る。
H 設計図面を修正する。
I 取り扱いを説明する。
つまり、現在映音システムがやっていること全てである。
今有るのは、この時が有ったおかげである。
この当時の図面は手書きである。
A1サイズの方眼紙を下敷きにし、トレーシングペーパーに描くのである。
描くのはいいが、修正が大変である。
修正しなくても済むよう、検討に検討を重ねてから取り掛かる。
今よりも、頭を使っていた。
電設営業を引き継いだ時、また肝をつぶした。
脳血管研究センターの竣工期限が迫っていたが、
特注機器の納期が間に合わないのである。
それからは、現場に日参した。
全然進展は無くとも、とにかく顔だけは出した。
その後、この時の担当者には、他の現場でも可愛がってもらった。
電設営業時代の一大物件は、秋田ビューホテルである。
といっても、私が受注したのでは無く、松下電器東京電設営業所が受注したのを、
工事するのである。
しかも、オープンのわずか半年前の受注である。
配線は、既に終わっているが、実施設計する前の配線である。
当然合わない。
それからは、死にものぐるいだった。
よくぞまとめたと思う。
おかげ様で、ビューホテル様とは、今も懇意にさせて頂いている。
ホテル宴会場の特徴は、部屋分割があるということである。
ある部屋のミキサーから、どの部屋をコントロールするかは、その都度異なる。
当然、マイクコンセントも、都度切替しなければならない。
ところがである、
A室のマイクケーブルは、A室のミキサーに配線されているのである。
これでは、マイクコンセントの切替ができない。
結局、A室ミキサーからB室マイクコンセントを使用する場合は、
B室のミキサーをリモートコントロールするようにした。
つまり、ミキサーを特注したのである。
こういう無理をすると、良い結果は得られない。
案の定、音質に問題が出たが、いかんともし難かった。
我慢してもらうしかなかった。(注 今は直っている)
電設営業を4年やったが、その間、客先に怒られたことは一度も無い。
特別な努力をしたというのでは無い。
やるべきことは決まっているから、先先に手当てすれば良いだけの話である。
完成図書は、言われる前に出来ていた。
相変わらず営業成績は上がらなかったが、
それなりに楽しく仕事はしていた。
得意先の評判も悪くは無かった。
須田君が来れば安心だと言われていた。
しかし、それも終わる時が来た。
ひとりで、営業と、技術と、工事との掛け持ちである。
体が悲鳴をあげた。
車を2台つぶした。
不幸中の幸いで、2回共、相手はダンプカーだった。
私も、入院しないで済んでいる。
しかし、傷跡は、死ぬまで消えぬ。
それで、下請けとして、技術工事部門を請け負わせてもらうことになった。
10年半の間、お荷物社員だったので、少しは恩を返したいと思う。
特に、私の後を引き継いだS君には、迷惑をかけてしまった。
私が、彼のいうことを何でもきく(基本的には)のは、そのためである。