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あっけら館 離れ座敷

(セイロン余話)

 

 

初めにお断りしておくが、これは30年も前の話である。

電話網が出来る前の話である。

我々が建設した電話網が、彼の国の発展に大きく寄与したであろうから、

現在の状態とは全く異なるはずである。

 

 

         我々が建設した電話網は、西部と南部(シンハリエリア)であり、

         北部と東部(タミルエリア)は含まれていない。

         民族紛争に、油を注いだ可能性もある。

         事実、我々は、北部への旅行は禁止されていた。

         我々の後、イギリスの資本で電話工事をしたと聞いているので、

         北部と東部だったのかも知れない。

 

 

セイロンとは、現在のスリランカのことである。

滞在中に、国名が替わった。

JAPANがNIPPONになったと考えればよい。

ちなみに、スリランカとは、シンハリ語で、「光り輝く島」という意味らしい。

外務省のデータ  大使館  情報1  情報2  民族紛争  歴史  

 

 

滞在中に替わったものが、もうひとつある。

為替レートである。

1ドル360円の固定レートであったものが、

変動レートとなり、300円になった。

儲かったのか、損したのか、理系頭では計算できない。

 

 

実は、第2次世界大戦中、日本軍はセイロンを空爆している。

イギリス海軍が居たからだ。

しかし、戦後、日本は、セイロンに助けられている

インドといいセイロンといい、仏教の国は何か違う。

(仏教はインドで誕生した。しかし現在のインドはヒンズー教になっている)

 

 

セイロンの国語は3つある。

英語とシンハリ語とタミル語である。

役所の文書は、この3つが併記されている。

さぞや、わずらわしいことだろう。

 

 

役所で出世するためには、イギリスに留学する必要がある。

かように、イギリスの影響はいまだに濃い。

たいていの場所で、英語が通ずる。

 

 

セイロンの人種は複雑である。

もともと、住んでいた人      たしかベダと呼んでいた

最初に攻め込んだシンハリ人    西部南部に多い

その次攻め込んだタミル人     東部北部に多い

シンハリ人が連れてきたタミル人  インドから奴隷として

ポルトガル殖民時代の子孫     いるとは聞いていないがいるはず

オランダ殖民時代の子孫      確かバーガーと呼んでいた

イギリス殖民時代の子孫

つまり、戦争の歴史でもある。

今も、内乱が続いている。

北海道よりも小さい国なのに。

最後の楽園と言われた国なのに。

 

 

セイロンには犯罪は無い。

殺人も強盗もドロボウも交通事故もない。

それでも、民族紛争はある。

 

首の縦振りはYESだが、NOは横振りではない。

頭のてっぺんにボールジョイントを付けて、

顎を左右に振るのである。

慣れないと、見分けが付かない。

 

 

セイロンで道を尋ねると、必ず教えてくれる。

たとえ、知らなくても教えてくれる。らしい。

であるから、複数の人に聞く必要がある。

 

 

なぜこんなことをすると思うだろうが、深い訳がある。

詳しい説明ははばかられるので、

殖民政策の悲哀が生んだ技とだけ、言っておこう。

 

 

シンハリの宗教は仏教である。

彼らは、敬虔な仏教徒である。

頻繁にお寺参りし、花と線香は欠かすことが無い。

セイロンの京都とも言うべき、キャンディという町がある。

ここのお祭りペラハラは華やかである。

象を飾りつけ、たいまつを掲げ、太鼓をたたき、踊りながらのパレードである。

見ていても興奮する。

 

 

タミルの宗教はヒンズーである。

彼らのお祭りは、厳かである。

山車から一本の竹ざおを突き出し、ひとりの人間をつるす。

つるされた人は、花びらを巻きながら、静々と行進する。

ただし、つるし方が驚がく的である。

大きなフックを、背中と太ももに(ふくらはぎも?)刺してつるすのである。

大変な名誉とのことだった。

痛くも無いらしい。

 

 

セイロンの主食は米である。

が、短粒米であり、パサパサである。

一旦蒸すか煮るかして、火を通してから保存するらしい。

そのせいか、刺さるような匂いがする。

しかし、これも慣れである。

 

 

向うの料理はカレーである。

朝から晩までカレーである。

カレーとは、カレーライスと言う意味ではない。

料理と言う意味に近い。

肉のカレー 魚のカレー 豆のカレー といった具合である。

これを、ご飯にかけて食べる。

ただし、日本のカレーのようなとろみはない。

 

 

       秋田市の市役所裏に、ティーランカと言う店がある。

       直訳すれば、「紅茶の島」とでもなるのだろうか。

       上の娘は、美味しいといって、亀田からわざわざ食べに行く。

       しかし、私には、物足りない。

       無理を言って、アラックを1本わけてもらった事がある。

 

 

青くて小さくてものすごく辛い唐辛子があるが、

セイロンの人は、そのままかじって食べることが出来る。

したがって、セイロンのカレーは、ただの辛さではない。

日本人は、一度食べると二度味わうことが出来る。

つまり、食べた時と、その翌朝である。

と、経験者が言っていた。

 

 

セイロンの人は、カレーを手で食べる。

我々も寿司を手で食べる。

それが礼儀作法である。

手で食べるのには訳がある。

小石が混じっているのである。

それを、より分けながら食べるのである。

 

 

食べるのは必ず右手である。

左利きの人も右手である。

左手は、不浄なのである。

左手は、水洗トイレで使用する。

缶からに入った水洗トイレでである。

 

 

女性の服装はサリーであるが、

男性の服装はサロンである。

白い風呂敷を筒状に縫ったもの、と思っていただきたい。

それを腰に巻きつけているのである。

もし男性が道端にしゃがんでいたら、

それはオシッコしているのである。

ズボンを履いて靴を履いていたら、

彼は、上流社会の人である。

 

 

ヤシには2種類ある。

黄色いキングココナツと緑のココナツである。

キングココナツは飲み物である。

道端でいくらでも売っている。

水は飲めないから、よく飲んだ。

味は、ポカリに近い。

ココナツは油を絞るものである。

 

 

ヤシの木の林では、てっぺんをロープで繋いでいるところがある。

花の幹を切り落とし、樹液を採るためである。

これを、自然発酵させたのが、トディであり、それを蒸留したのがアラックである。

このロープを伝って、木から木へ渡るのである。

なお、夜に、ヤシ林に入ってはいけない。

ヤシの実が落ちてくるのである。

 

 

セイロン出張が決まった時、夢でうなされた。

英語を話せなくて、しどろもどろしている夢である。

英語で夢を見たのは、これが最初で最後である。

 

 

須田さんが英語をしゃべれないのは判ったから、

単語を並べてくれればいい。

と、生徒どもに言われた。

しかしだ、お前たちも、日本語をしゃべれないではないか。

日本語教育もしてやった。

 

 

彼らとは、よくお茶を飲んだ、

ティーと言えば、ミルクティーのことである。

ミルク無しは、プレンティーである。

このティー、日本のミルクティーとは全く違う。

濃さが全く違うのである。

ミルクティー用のティーは、そのままでは渋くてとても飲めたものではない。

しかし、ミルクティーにすると非常に美味しいのである。

なお、レモンティーは無かったと思うが、

我々は、特別注文で飲んでいた。

 

 

2年もいると、英語にも慣れてくる。

終わりの頃には、英語で喧嘩していた。

電話でさえ、喧嘩していた。

しかし今では、すっかり忘れた。

 

 

パスポートを取る時、始末書を書かされた。

名前を間違ったからというのである。

自分の名前を間違えるバカがどこにいる。

旅行代理店が間違えたのである。

それにしても、こんなことで始末書を取るなんて、

役所はヒマなんだと思った。

 

 

       後に、秋田で運転免許証を取った時、スダキクとカナが振られていた。

       訂正を申し込んだが、これでもいいのだという。

       役所が間違えた時には、直す必要さえ無いものらしい。

       人の名前である。

       民間では、商売にも影響する。

 

 

初めてセイロンに行った時は、戒厳令のさなかだった。

今もそうだが、タミル族とシンハリ族との紛争があったのだ。

その紛争1周年記念日が近づいた時、

大使館から、何かあったら、大使館に逃げ込めと通達があった。

何かって、ドンパチのことでないのか。

ドンパチの中を、どうやって逃げ込むのだろう。

幸い、何も起こらなかった。

 

 

セイロンには、2年居たが、途中でひと月だけ日本に帰っている。

別に、用事があった訳ではない。

忙しくなる前に休ませてやろうとの、上司心である。

2回目の出張の時、バンコックにダンボール箱10個程、届けるはめになった。

これは何も問題はない。

問題は、バンコックからコロンボに向かう時に起きた。

飛行機のエンジントラブルである。

ダンボール箱は、まだ10個もある。

それを、空港に預けて、一旦バンコックに戻った。

どうやって交渉したのだろう。

 

 

タイでは、2日余裕があった。

で、見物に出た。

しかしである。

英語が全く通じない。日本以上に通じない。タクシーさえだめだった。

2日目は、案内を頼んだ。

伍代さんと言う、きれいなお姉さんが来た。

なんにも見えなかった。

 

 

セイロンでは、Sea View Hotel に泊まっていた。

イギリス植民地時代に、女性下士官の宿舎だったものである。

2軒長屋10棟程が、コの字に並んでおり、もう1辺に食堂があった。

中庭は芝生で、中央に丸い池があった。

ホテルに帰るとまず、この池のまわりでお茶を飲むのが、皆の習慣になった。

 

 

私の部屋には、同室者があった。

ヤモリである。

蚊もいた。

モスキートコイルは、欠かすことができなかった。

 

 

このホテルは3食付きで、月99ドルであった。

滞在費として支給される額の、半分以下である。

したがって、半分だけ、送金してもらった。

それでも余った。

 

 

セイロンの通貨はルピーである。

オフィシャルレートは、1ルピー60円である。

しかし、我々は、特別待遇だった。

40円で1ルピーに替えてくれた。

お金はもういい、というのに。

ルピーをドルにも替えてくれるというのなら、話は別だ。

一旦ルピーにしたら最後、ドルには戻せないのである。

外貨獲得の手段だったのだろう。

 

 

セイロンは紅茶の国である。

お茶摘み娘もたくさんいる。

彼女らの日当は2ルピー(120円)であった。

申し訳ない。

 

 

セイロンはブッダの国である。

犯罪は無い。

スナックも、赤ちょうちんも無い。

バーと言えば、ミルクバーのことである。

ただ1店だけ、船乗り相手のキャバレーがあった。

ある時、仲間たちが、青い顔をして帰ってきた。

目の前で、人が刺されたのだそうだ。

 

 

しかし、酒に困ることはない。

ホテルでなら、自由に飲める。

店でも売っている。

トゥディ(やし酒)もアラック(トゥディを蒸留したもの)もある。

ビールなら、ライオンラガーとスリーコインがある。

スコッチだってブランデーだってある。

しかし、どんなに飲んでも、なかなかお金は減らない。

金が有って困ったのは、この時だけである。

 

 

こんな訳だから、我々は気前が良い。

大体チップの習慣が無いから、相場なんぞわからない。

判らないから、多めに置く。

イギリス大使館から、クレームが来た。

なお、ウエイターは給料をもらっていない。

チップが唯一の収入源であると聞いた。

 

 

ホテルの食事はイギリス食である。

メニューに、あまり変化が無い。

牛の脳ミソ 牛の尻尾 牛の腎臓 海亀のスープは、よく出てきた。

苦労した人もいたようだが、私はなんでもなかった。

それでも、インスタントラーメンは、最高のご馳走だった。

 

 

正月にもちが送られてきた。

早速、コックに雑煮を作ってくれるように頼んだ。

もちろん作り方は、懇切丁寧に教えた。

出てきたのは、ポタージュだった。

 

 

ホテルニッポンというホテルがあった。

我々の仲間の何人かが、そこに住んでいた。

たまに、日本食を食べに行った。

なんとなく日本食らしいものが出てくる。

ただし、醤油が違う。

多分、中国のものなのだろう。

 

 

中華料理店は何軒もあった。

春巻きと蟹玉スープは、どこもおいしかった。

ウインドミル(風車)と言うレストランがあった。

カックンビーフという、菜っ葉と牛肉のいためものがあった。

これを食べに通った。

 

 

セイロンに2年いたら、肌がカサカサになった。

二の腕をつまむと、そのままの形が残った。

野菜料理と言うものが無いから、栄養が足りなかったのだろう。

カックンビーフがおいしかったのも、

体が求めていたからかも知れない。

 

 

我々にとって、麺類は主食である。

しかし、セイロンでは主食ではないのかもしれない。

メニューには、ヌードルスープと書いてある。

蟹玉スープとヌードルス−プだけをたのむと、スープだけかと思われる。

 

 

バナナ パイナップル パパイヤ マンゴー はよくデザートに出る。

日本でも、珍しくはなくなったが、味は全然違う。

何しろ、完熟したものをもぐのである。

青いやつに、無理やり色をつけたのとは違う。

 

 

果物の女王は、マンゴスチンである。

これは、よく食べた。(ただし時期がある)

果物の王様は、ドリアンである。

これは、私には禁止令が出た。

発注先のお偉方にも会わねばならないからである。

ランブタンもおいしい。

これは、ライチの味である。

 

 

セイロンには四季は無い。

北緯8度の国であるから当然である。

しかし、乾季と雨季がある。

したがって、植物には季節があるのである。

ただし、パパイヤなんかは、年中実をつけていたような気がする。

 

 

このホテルの中庭に、ライムの木があった。

私は生来酸っぱい物好きで、ライムジュースは良く飲んでいた。

1個ご馳走になろうと思った。

レモンの比ではなかった。

 

 

このホテルの傍に、大きな菩提樹があった。

その枝に、やけに動きのにぶい小さな猿を見つけた。

早速捕まえてボーイに見せたら、しかられた。

やはり、虫も殺さない国だった。

スローローリーと言う猿だそうだ。

 

 

向うの椅子は、藤椅子である。

座る部分が、網なのである。

網目には、南京虫が棲んでいる。

ドンと床に打ち付けると、ボタボタ落ちる。

現地の人は、それさえ踏むという事はしない。

そっと、傍によせるだけである。

我々のお尻は、皆網目になっていた。

痒いのなんのって、気が狂いそうになる。

Gパンを切ったのを履いていたが、何の役にも立たなかった。

 

 

セイロンには、入れ替わり立ち代わり90人も行った。

その内1/3が入院している。

ある人は、来て、入院して、帰っていった。

日本は、清潔過ぎるのかもしれない。

そんな中で、2度、デング熱にかかりはしたが、私が一番元気であった。

食事の苦労も無かった。

あの偏食で、虚弱児童だった私がである。

きっと水が合ったのだろう。

注  水道水は絶対に飲んではいけない。飲むならビールがベスト。

氷も危ない。水道水で作っているかも知れないから。

 

 

象皮病(フィラリア症)と言う病気がある。

足が、像の足のように太くなる寄生虫病である。

蚊が媒介する病気だから、やっかいである。

熱帯地方では、普通の病気である。

私も、何十人も見た。

治療法は無いので、非常に怖い。

潜伏期間が非常に長いが、30年経ったのでもう大丈夫だ。

と思う。

 

 

2年もいると、旅行しようという話もでる。

段取りは、当然、コロンボにいる私ということになる。

我々がいるのは、シンハリのエリアである。

仏教寺院と、仏教遺跡にはことかかない。

いたるところが我々には観光地である。

(いまでは、5箇所も世界遺産に指定されている)

ある時、旅先のホテルから散歩に出た。

快晴の新月の夜である。

満点の星であった。

順山男である私も、あんな降るような星空は初めてであった。

 

 

夜光虫も初めて見た。

海の波がボーっと光っていた。

手を浸すと、手が光った。

手全体が青く光った。

 

 

セイロンの道路事情は良い。

どんな山道も、舗装されている。

紅茶を運ぶためらしい。

我々の移動は、いつも車である。

ちなみに、セイロンは日本と同じく左側通行である。

左側通行の国は、日本とイギリス圏の国だけらしい。

 

 

タクシーはたくさんある。

しかし、車検制度などは無い。

ウインカーは点かないから、手信号である。

窓が開かないのは、普通のことである。

 

 

バスも多い。

イギリスの2階建てバス、ダブルデッカーである。

のっぽの分、安定性が良くないので、揺れる。

 

 

鉄道はあまり整備されていない。

一度、夜に乗ったことがある。

ヤシガラを燃やして、振っていた。

それが信号機であった。

 

 

ボタニックガーデンが何箇所かある。

いわゆる植物園である。

殖民政策の目的のひとつが、有用植物の発見だったのだそうだ。

セイロンは蘭の宝庫でもある。

 

 

セイロンは、元はコーヒーの国だったそうだ。

それが、病気で全滅し、その後に植えられたのが、紅茶である。

インドに次ぐ、紅茶の産地である。

山のてっぺんまで植えられている様は、壮観である。

日本の棚田や段々畑を見たことはないが、

その比ではないと思う。

見渡すかぎり、茶畑なのである。

 

 

ヤラの自然公園では、車に乗ってクルーズした。

豹がいるので、歩いては行けないのだそうだ。

野生の象に会って緊張したが、

案内の人とは顔見知りだから心配ないとのことだった。

このとき、はるか向うの雲の中に、大量の雷を見た。

稲妻が横に走っていた。

花火みたいだった。

 

 

ここで、裸象に乗った。

お尻が、右から左から突き上げられる。

決して乗り心地の良いものではなかった。

セイロンの象は働き者である。

丸太運び等に活躍している。

象使いもたくさんいた。

 

 

日曜日は、よくネゴンボのホテルへ遊びに行った。

何があるわけではない。

プライベートビーチがあるのである。

ここの海岸には、

Swim With Your Own Lisk

と書かれた立て札があった。

やはり、イギリス紳士の国であった。

日本なら、

危ないから泳いではいけません、だろうな。

 

 

日本を出る時、いつも私が頭を下げている部門の女の子から、お手紙をもらった。

像毛をお願いと書かれていた。

私は正直な人間だから、像毛を捜した。

いくら探しても、見つからなかった。

象牙で勘弁してもらった。

 

 

が、後で、象の毛は幸運のお守りであると聞いた。

もしかしたら、本当に象毛を所望していたのかも知れない。

なぜ、みつからなかったのだろう。

 

 

セイロンは宝石の産地である。

ダイヤモンドと、エメラルド以外は何でも採れる。

しかし、宝石鉱山などと言うものは無い。

野原に井戸を掘るのである。

20m程掘ると鉱脈に突き当たる。

そこから、鉱脈に沿って横に掘り進む。

掘った土を洗えば、宝石が見つかるのである。

 

 

ある日新聞に興味深い記事が載った。

20キロもある宝石が、やしの木の根元にころがっていたというのである。

もっとも、宝石ではなく、貴石の部類であろう。

 

 

宝石といっても、色の悪い物もある。

そういうものは、煮たり焼いたりして色を出すらしい。

放射線も当てるらしい。

そうして加工したものと、本当に天然のものと、

なかなか区別がつかないらしい。

 

 

宝石の研磨工場を見学したことがある。

50cmもある丸い砥石の心棒に、弓の弦を巻き付け、左手で回していた。

棒の先に宝石を貼り付け、右手で研磨していた。

あれで正確な研磨が良くできるものである。

熟練がなせる業であろうか。

 

 

お土産は貴石である。

ガーネットだのムーンストーンだの、山ほど買ってきてばら撒いた。

原価は1個50円である。(5ルピーだったかも)

 

 

宝石も買ってきた。

母にはキャッツアイ、妹にはスタールビー、従妹にはルビーである。

しかし、もう1個必要だった。

今も妻に言われる。

たった今、上の娘にも言われた。

 

 

我々が帰る頃、最初のアメリカ資本のホテルを建てていた。

たしか、レヌカホテルという名前だったと思う。

今では、たくさん建っている

何しろ、最後の楽園と言われる国である。

治安も、日本よりも良い。

日本からも、たくさんの観光客が行っているようだ。

 

 

今、ルピーの為替レートは、1ルピー1.1円である。

1ルピー60円だったものが、1.1円まで下がっている。

実に1/55になったのである。

大いに、経済発展したはず、と思うのだが、

他の国がそれ以上に発展したということか。

ちなみに、普通の人の給料は、1万ルピーくらいらしい。

 

 

生産拠点を、海外に移す日本企業は多い。

スリランカへも多くなるだろう。

今は、製造関係が主なようだが、

IT関係も多くなるのではないだろうか。

インド人の頭は理系で、ITに強いと聞く。

それなら、同じ出身のスリランカ人もITに強いはずだから。

経済状況     日本の援助の継続的・効果的な実施に期待 を参照

IT状況     62ページ参照

JETRO    

繊維業界     

進出企業への苦言  

進出企業の実態