とんちん館
(我が家いろいろ)
蛇年生まれはお金に困らないっていうけれど、
お金持ちになるって意味じゃないよ。
お金が無くっても、それを苦には思わないって事だよ。
と、蛇年生まれの、上の娘が言った。
空が青いから幸せ、と言える娘は、確かにそうだ。
この娘、カミナリがガンガン鳴る大荒れの夜更けに、
わざわざカミナリを見に、海に行った。
とともきれいだったと、のたまった。
この娘は定職についていない。
役場の臨時職員 少年自然の家の臨時職員 消防学校の臨時職員と、
毎年、臨時職員を続けている。
しかし、切れ目なく続けることが出来ているということは、
それなりに、いいところがあるということか。
この娘は大学に6年も行った。
といって、修士課程に進んだわけではない。
妹より2年早く入学し、妹と同じ卒業式で卒業したというだけの話しである。
6年も行ったおかげか、雑学である。
この娘が幼稚園の時に、児童相談所に連れて行けと、言われたことがある。
本ばかり読んでいて、友達と遊ばないのだそうだ。
で、意地悪したり、意地悪されたり、騒いだり、暴れたりするのかと訊ねた。
そういうことは無いというので、連れていかなかった。
いま、我が家の2階は、床が落ちそうだ。
この娘がさらに小さい時に、「おじさんいつ帰るの?」と聞かれたことがある。
おじさんとは、私のことである。
親とは思っていなかったのか。
2800グラムで、下の娘は生まれた。
手の平にのるくらい小さくて、猿みたいに赤かった。
母親より1週間も長く入院いていた。
ほんとに育つか心配だった。
この娘が小さいころは、元気のかたまりだった。
小さく生まれた分を取り返して、おつりがきた。
何でも、バリバリ食べた。
姉の手を引いて歩いていた。
大館にいた時、3歳のこの娘をよく人材派遣に出した。
隣の夫婦にまだ子供がいなかったので、よく借り出された。
ひと晩もふた晩も帰って来なかった。
親は無くとも子は育つ。
この娘が少し大きくなった頃は、がっちりで、むっちりで、真っ黒だった。
小学校で1番黒かった。
皇太子(今上天皇)に、「どうして黒くなったの」と聞かれたことがある。
娘は、「外でいっぱい遊んだの」と答えたのだそうだ。
りっぱ。
この娘、中学校ではトロンボーン、高校ではユーホニウムを吹いていた。
どっちかというと、男の楽器ではないだろうか。
男勝りということか。
そういえば、ブラバンって、運動部なんだよ。
とも、言っていた。
この娘が、高校生の時、
私一人が掃除している、とこぼしたことがあった。
掃除したくないのかと訊いたら、そうではないという。
なら、ひとのことはともかく、お前が正しいと思うようにやれ。
と答えた。
その後どうしたかは、聞いていない。
3人目ともなると、親も慣れてくる。
写真もほとんど無い。
長男だというのに。
差別だ、と本人に言われたことがある。
大館にいた時、息子はまだ1歳だった。
ひきつけを起こして、救急車で病院に運ばれた。
男はかよわい。父親に似たか。
妻の実家(300mしか離れていない)には、柿の木が20何本かあった。
小学校に上がる前だと思うが、その枝を、鉈で切って遊んでいて、
左手の親指の付け根をざっくりと切り込んだ。
すぐに、救急病院に運んだら、何針か縫われた。
さすがに、青い顔をしていたが、泣きはしなかった。
傷跡は、男の子の勲章だ。
小学校時代、担任に文句を言ったことがある。
人の言うことはきくな。親の言うこともきくな。先生の言うこともきくな。
自分の言うことをきけ、としつけたものだから、
本当に自分の言うことしかきかなかったようだ。
修業式の日、通信簿を持って来なかった。
先生が渡さなかったそうだ。
さすがにこれはまずいと思い、すぐ学校に駆け込んだ。
謝るところは誤り、通信簿を渡してくれるようにお願いした。
じゃあ、今持って帰ってくれなどと言うものだから、こっちがブチキレた。
自分で直接渡せとタンカをきってしまった。
中間登校日に、通信簿を持って帰ってきた、
息子に聞いたら、机の上においてあったそうだ。
手渡さないとはどういうことだ。
今度は返しに行こうかとも思ったが、大人げないので止めた。
親達の評価が、極端に分かれる先生だった。
この息子が中学生の時、一年の内に担任が3人も代わった。
春、転校生が来て、2クラスが3クラスになった。
秋、担任が産休に入った。
ひとりやふたり増えたって、どうってことないんじゃないのか。
この息子、国立高専に入ったはいいが、4年で止めてしまった。
寮生活が面白くてさっぱり家には帰って来ないし、ロボコンもやっていたのに。
心と体は適合したが、おつむだけは適合しなかったみたいだ。
伯父(私の弟)が、母校のことを面白おかしく話すものだから、
すっかりだまされてしまったに違いない。
この息子、家の近くの山道で、車を沢に落としたことがある。
車は大破したが、本人はかすり傷ひとつ負わなかった。
その情報が携帯で飛び交い、その直後、
本人の友達、上の娘の友達、下の娘の友達、合わせて10何人かが我が家に集まった。
こいつも、捨てたもんではないなと、安心した。
我が家は、ばあさん方の溜まり場だ。
毎日毎日、よく話題があるもんだ。
関心する。
しかし、お互い、相手の話は聞いていない。
ような気がする。
米寿の親父は、一応元気ではある。
介護保険も使っていない。
しかし、来るべき友は皆亡くなった。
弟も亡くなっている。
その上、デイサービスは嫌だというから、行く所もない。
150鉢もあった盆栽も、手に負えなくなって処分した。
私も、こうなる恐れが、多分にある。
この父は、昔は山男だった。
日本の高い山は、たいてい登っている。
へばった友のリュックを、2つも3つも背負ったものだ。
しかし、年には勝てない。
我が家は娘共のクラブだ。
いつも一緒に行動しているので、
誰が長女の友達で、だれが次女の友達なのか、
私にはわからない。
この中に、足の不自由な子が一人いる。
お前は足が悪いんだから〜などと、平気で言っている。
いじわるしている訳ではないようだ。
事実として受け止めているという事らしい。
この子は、下の娘より、ふたつ年下と聞いている。
このグループ、どういうメンバー構成なのか、不思議に思っていたが、
高校時代の図書館仲間らしい。
この春、集まることがやけに多かった。
上の娘が講師になって、浴衣を縫っているとのことだった。
亀田の祭りでは、皆手作りの浴衣を着ていた。
みんなとてもきれいだった。
とうことにしておこう。
いつも女ばかりでつるんでいるので、
みんなの前で、
今後我が家は女人禁制にする。
ただし、同伴は除く。
と、宣言した。
しかし、その効果はまだ表れていない。
妻の母は、裁縫を教えていたことがあったらしい。
上の娘も、この祖母から裁縫を教わっている。
ただし、初歩の浴衣で終わってしまった。
この祖母は、9年間の闘病生活の末、亡くなった。
教える方も教わる方も、残り少ないと判っていただろうから、
一生懸命だったのではないだろうか。
この母、最期の1週間は、全ての治療を断った。
水もいらないと言ったらしい。
妻が、脱脂綿に水を含ませて、口元に持っていったら、しかられたようだ。
9年間に3度の手術をし、もう十分だと思ったのだろうか。
闘病中も最後も、静かだった。
妻の実家は、御殿医 武田伯善 である。
ただし、妻の父は養子であるから、その血は引いていない。
妻の兄妹にも、医者はひとりもいない。
何十年も昔、足駄を手に喧嘩する、医者の卵のテレビドラマがあった。
出身は羽後亀田藩だったと思う。
武田伯善という名前であったかどうか、定かではない。
我が家は、足軽の家系である。
参勤交代の道中記が残っている。
下っ端の苦労が偲ばれる。
柔術の免許皆伝の巻物もあるが、
技を描いてあるだけで、どうってことない。
親父が、6代前までは判ると言ったことがあった。
ルーツをたどってみたい想いはあるが、
米寿の親父に、家系図を書けとは、
さすがに言えない。
我が家は、亀田の町の中心部にある。
それでも、いつも、たくさんの家畜を飼っていた。
にわとり10羽
山羊1頭
綿羊1頭 後に 豚1頭に 代わる
蚕
よくぞ飼ったものだ。
にわとりは、正月にはご馳走に化けた。
山羊の世話は、もっぱら私の仕事であった。
時々、山羊を連れて登校していたが、
ある日、グラウンドに繋いでおいた。
当然、山羊の実がたくさん製産された。
当然、しぇんしぇにごしゃがれだ。
父親は、国鉄土崎工場に勤めていた。
母親は、野良仕事と土方をしていた。
祖父は、表具師をしていた。
祖母は、野良仕事と、家事をしていた。
一家で4人が働いていても、貧乏だった。
親父が初めて1万円札を持って帰った時、
神棚に上げて拝んだのを覚えている。
木造の旧亀田小学校を解体したとき、棟札が見つかった。
それには、棟梁 須田喜代次 と書かれていた。
私の祖父である。
この祖父、見積もりを間違い、田んぼを売り払って建てたらしい。
それにしては、バルコニーも付いた、立派な学校だった。
この祖父、年をとってからは、表具師をしていた。
予算がなければ、下貼りに新聞紙を使うこともあった。
したがって、時には新聞の文字がうっすらと見えることもある。
納入してからも、気になって仕方がなかったのだろう。
無料で、やり直させてもらっていた。
私が祖母だと思っていた人は、父の実母ではなかった。
それを知ったのは、祖母が亡くなってからである。
父は4人兄弟であるが、ひとりは母が違う。
この、母違いの弟は、200mしか離れていない所に住んでいた。
よく、一升瓶をかついで、蓄音機を持って、子供連れで遊びにきていた。
話が上手で、楽しい人だった。
こういう大人になりたいと、思っていた。
私が、金太郎や桃太郎を歌えるのは、このおかげである。
私は虚弱児堂だった。
1歳の時、大病を患ったとのことだ。
体育 運動会 遠足 が嫌いだった。
朝礼では、よく、立ったまま失神した。
さぞ苦しかったろうと、思うかもしれないが、そんなことはない。
失神する瞬間は、気持ちの良いものである。
死んだ人に聞いてみないと判らないが、
死の瞬間も、気持ちの良いものかも知れない。
高校2年の時、鉄剤を2ヶ月間飲んだ。
偏食が激しかったので、鉄欠乏症になったのだろう。
いくらでも走れるようになった。
健康とはこういうことかと、思った。
今は、お金欠乏症である。
中学時代、なかよし4人組みの1員であった。
日曜の度に、あるひとりの家に集まった。
しかし、私は自転車に乗れない。
いつも、一番馬力のある、牛というあだ名の友達に運んでもらっていた。
ありがとう。
たまり場であった友の母親は、上品でやさしい人である。
いたずら盛りの我々にも、声を荒げることはなかった。
よく、蒸しパンを作ってくれた。
生みたての卵と黒砂糖入りの、あの味は忘れられない。
私にとっては、第2の母である。
ある時、牛の家に男女合わせて20人程集まったことがある。
飲んで食って大騒ぎした。
フクロとは、こんなにうまいものなのだと初めて知った。
翌朝、部屋はヘドロの海と化していた。
牛の母さん、ごめんなさい。
高校には、2期生として入学した。
校舎は、まだ完成していなかった。
ずいぶん労力奉仕をさせられた。
しかし、授業料は、まけてくれなかった。
この時代、いつも4人でつるんでいた。
修学旅行もこの4人で1班だった。
きっと、ダダをこねたに違いない。
この4人でキャンプをしたことがある。
皆、初めてのキャンプである。
しかも、当然と言えば当然だが、キャンプ用具などと言うものは無い。
何か茶色のものをタープにして、その下に寝たと思う。
何であったか、もう判らない。
高校3年の時と思うが、仲間の一人が放送部を作ると言い出した。
そして、全女子生徒の勧誘に成功した。
といっても、工業高校だから、5人くらいのものである。
それにしても、たいした成果ではある。